紫紺の空の一つ星

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人間魚雷(回天)を考えた若者たち・改

 

もくじ

 

 

はじめに

 日本に特攻兵器として初めて誕生した、回天。

 後に回天という名前となる人間魚雷を発案したのは、海軍機関学校出身の黒木博司さん、そして海軍兵学校出身の仁科関夫さんだという話はとても有名です。しかし人間魚雷というものを考えていた人は、実はこの2人だけではありません。さまざまな場所で当時の戦争に直面していた若者たちが、人間魚雷、体当たり兵器の採用を訴えていました。その中で、実現までこぎつけたのが黒木博司さん、仁科関夫さんでした。

 現段階で私が知っている人間魚雷を考案した方々は、後述する10名です。この資料では、10名の方々が「いつ頃」、「どのような流れで」人間魚雷を考えたのかを、書籍をもとに簡単にまとめました。

(※和田稔さんに関しては、ドイツの人間魚雷に関して述べているという説もあるので、こちらには記載しておりません)

引用・参考文献は、各項目の最後にカッコ書きで番号を振っておりますので、「引用・参考文献一覧」の該当する番号よりご確認ください。

なお、この文章は筆者のブログ「紫紺の空の一つ星」に掲載している「人間魚雷(回天)を考えた若者たち」という記事の内容を一部編集・修正したものです。

 

 

 

人間魚雷を考えた若者たち

 ◆竹間忠三さん

 呂106潜の水雷長だった竹間さんが人間魚雷の構想の意見書を上層部に提出したのは昭和18年の初め、26歳の時。

意見は却下されましたが、竹間さんがこの意見書を提出した理由について、

「これは特修科学生中の同僚の体験談と、第七潜水戦隊司令部勤務中の第一線潜水艦の運用状況から、将来の潜水艦戦の様相を汲みとり、対策の早期確立の必要を感じたからであろう」

と、同期の菅昌徹昭さんは仰っています。[1]

 

 

◆沢崎正恵さん

 支那事変に従軍されていたご経歴があるので、今回ご紹介する方々の中では最年長だと思われます。

昭和18年6月、「絶対に敵の空母を沈めることのできる兵器を開発して、起死回生をはからねばならない」との思いで人間魚雷の設計を開始。翌年1月に完成し、その翌月に、自分が乗るつもりで海軍軍令部へ嘆願書を持ち込みました。

 嘆願書は採用されませんでしたが、沢崎さんは後に新聞で回天の存在を知り「私の考案した兵器に乗って死んでいった若者がいる―と複雑な気持でした」と語っています。[2]

 

◆近江誠さん

 昭和18年、伊165潜はインド洋で敵駆逐艦にズタズタに攻撃されます。その航海長だった近江さんは、「一人が相手を道ずれにして死に、味方の九十九人が助かる方法はないか」と考えた結果、人間魚雷の構想にいきつきます。同年末~昭和19年初め頃、自分が乗るつもりで血書嘆願を上層部に提出しました。

 近江さんの生年月日は不明なのですが、海軍兵学校70期なので当時20代前半だと思われます。後に回天基地へ赴任されました。[3]

 

◆橋口寛さん

 昭和19年巡洋艦「摩耶」に乗っていた橋口さんは、人間魚雷兵器を血書嘆願しています。当時19歳か20歳あたり。

 その後、回天基地への転任の辞令が出されます。[4]

※橋口さんに関する詳細は調査中です

 

◆三谷与司夫さん

 昭和19年10月、駆逐艦「桐」の水雷長だった三谷さんは、守るべき空母4隻を失った捷一号作戦からの帰投中に、「この優秀な魚雷を敵艦に当てるには人間が乗っていくしかない」と考え、絵を描いた志願書を艦長に提出しました。当時21歳。

 帰投後、回天基地へ転任されました。[5]

 

◆深佐安三さん・久良知滋さん・久戸義郎さん

 彼らの考えていたものこそが、後に「回天」と呼ばれる人間魚雷の原点です。

 昭和18年12月、当時20代前半の3人の青年士官が、使われていない93式魚雷の活用方法と戦闘方法について毎晩考え、話し合っていたのが始まりです。翌月、同じP基地(特殊潜航艇の基地)にいた設計に詳しい機関科の黒木さん(後述)と、3人と同期の仁科さん(後述)も加わり、5人で回天の実現化に励むことに。

 やっとの思いで設計図を完成させ、5人でP基地の司令へ提出しますが、処分されてしまったので、今度は海軍関係のあらゆる場所に、司令に内緒で送りました。

 その年の2月、上層部が人間魚雷の構想に関して興味を示したため、さっそく試作の話が持ち上がりました。が、これからという時に、3人は辞令により回天に携わることができなくなり、回天の実現はその後黒木さんと仁科さんが行っていきました。

 回天の原点をつくりだした3人ですが、回天搭乗員にはなれませんでした。[6]

 

◆黒木博司さん・仁科関夫さん

 人間魚雷のことではないものの、黒木さんが特攻兵器に関して血書嘆願を上層部に提出したのは昭和18年3月、21歳の時。その後人間魚雷の構想もねり始め、10月には同期たちに人間魚雷の血書嘆願に署名血判をお願いしています。

 12月、2ヶ月前にP基地に赴任してきた仁科さんと同部屋になり、思想等が似通っていた2人は、すぐに意気投合。仁科さんは兵科の知識で人間魚雷の構想を助けました。

 同年末に二人で海軍省へ図面を持っていき、その当時考えていた人間魚雷の採用を直接訴えました。

 翌年の1月から試作までの話は前述したので省略します。

 上層部は脱出装置をつけることにこだわりましたが、彼らの脱出装置不要との申し入れによりこれを取りやめ、7月にようやく完成。走航テストが黒木さん・仁科さんの操縦で行われ、見事成功し、その後正式採用されました。その当時黒木さんは22歳、仁科さんは21歳です。[7]

 

 

彼らの人間魚雷考案に私が思うこと

 当時を実際に生きたことがない私たちから見るとなかなか理解しづらい、というか、ほぼ理解は不可能なことだと思いますが、別々の場所や所属にいたにも関わらず、10名が10名、同じ「人間魚雷」というものに固執したのは、当時の状況下で、そこに何か見出せるものがあったからなのではないかと、私は思っています。

 また、彼らは今でいうとてもエリートな方々。頭がものすごくいい人たちばかりです。そして生前のエピソードや家族宛の手紙を調べると、とても家族思い、友人思いな方々です。私は、そんな彼らだからこそ人間魚雷を考えたのだと思っています。

 軍人として戦争の前線にたち、愛すべき家族や生まれ育った祖国を思い、同胞を思い、軍人である自分たちの立場から、さまざまなことを思い、苦悩し、必死に考えていたと思います。そんな中から生まれたのが人間魚雷の発想だったのではないかな、と。

 表面的に見ると、彼らは「特攻兵器に拘った」ということになりますが、決して「必死」をゴールにしていたのではないでしょう。必死はあくまでも過程であり、ゴールではないと思います。

 彼らにはその先に、自分たちにとって最も大事なものが見えていたのではないでしょうか。そして、その大事なものを守るために、その当時最善で効率的な兵器、それが人間魚雷だったのではないか、と私は考えています。

 

最後に、八丈島の基地回天隊隊長だった小灘利春さんのインタビューの内容の一部をここに引用します。

「私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っているんですね。一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。戦後の新聞はやれ、愚かな戦争とか愚かな特攻隊員などと書きたがりますが、回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか」[8]

 

 

引用・参考文献一覧

 [1] 第六十五期回想録編集委員会.(1985).『第六十五期回想録』. 海軍兵学校第六十五期会.頁:582

[2] 恩田重宝.(1988).『特攻』.講談社.頁:304〜307

[3] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:97~99

[4] 小灘利春・片岡紀明.(2006).『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』.光人社.頁:25

[5] 西尾邦彦.(1995).『関西ネイヴィクラブ講演録(平成7年5月23日)』. 関西ネイヴィクラブ事務局.頁:190

[6] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:23~25,118~121

[7] 吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:282~284,305~306

上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:100~103,106~108,130,131

[8] 『特攻 最後の証言』制作委員会.(2013).『特攻 最後の証言』.文藝春秋.頁:100