紫紺の空の一つ星

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柿崎実中尉の涙

涙を流す、泣く、という事。

涙を流す理由としては、悲しさ、怒り、悔しさなど、何かしらの感情が込み上げる事があげられますが、今回は理由や感情ではなく行為そのものについて考えます。

そもそも、泣くという事はどういう事なのか。

泣く行為というのは弱虫とか恥ずかしいとか女々しいとか、一般的に考えるとそんなイメージがついていると思いますが、実は精神的に強い人ができる事なのです。

泣く事は、自分の感情、自分の弱さと向き合い、そのままをきちんと受け止めている行為であるという事。泣くのを我慢して、その感情をなかった事にするというのは、自分の弱い部分や、悲しい・つらい・悔しい…などと感じた事を押さえつけ、見なかった事にする、イコール、自分のありのままを認めない、という事になります。

自分を認め、どんな自分であろうと自分自身としっかり向き合えているからこそ、涙を流し、感情を開放できるのです。

「ありのままの自分を認める」「自分と向き合う」文字にするのは簡単ですが、実際やるとなると大変困難であり、そして終わりなきことでもあります。

自分自身と向き合う力と根気強さがある人=精神的に強い人は涙を流す事ができる、という事はお分かりいただけたでしょうか。

 

私が尊敬している柿崎実中尉には、「泣いていた」とされる証言が二つ残されています。

一つは昭和20年3月31日。

それは同年3月29日、多くの戦友に見送られ光基地を出撃した多々良隊、柿崎隊長以下6名を乗せた伊47潜が、30日に米軍の攻撃により負傷し、作戦中止・基地帰投を決めた日です。

伊47潜艦長である折田善次さんは、その日柿崎さんが「なぜ自分たちだけ突入の機会に恵まれないのか」と嘆いたという証言を残されています。

回天刊行会の「回天」や上原光晴さんの著書「「回天」に賭けた青春」、ザメディアジョンの「人間魚雷回天」等にもそのお話が載っていますが、雑誌「丸」の臨時増刊「特集・神風と回天」に載っている鳥巣さんと折田さんの記事では、その時の状況が詳しく書かれているので、今回は丸から引用します。(※臨時増刊の発行年が昭和33年なのですが、この記事自体が昭和32年の5月号から14回にわたって本誌に連載されており、それをひとまとめにしたのがこの臨時増刊だそうです。)

 

丸臨時増刊によると、31日早朝に内之浦港に入港して艦の調査、艦隊司令部への報告等を行い、日も沈みかけた夕方、折田艦長は艦橋にて一人で煙草を吸っていました。

ふと窓越しに前甲板を見ると、6号艇(回天)のかげに柿崎さんがしょんぼり腰をおろし、頭を両手で抱え込み思い悩んでいるような様子が見えました。

艦長は柿崎さんのもとへ行き、「暗くなったから艦内にはいれ、風邪をひくぞ」と声をかけます。

 柿崎さんはその声にはっとしたようで、袖で顔をふいて立ち上がりました。なぜ袖で顔を拭いたのかというと、泣いていたからです。

二人はしばらく無言でしたが、柿崎さんから先に口を開き、このような会話をしています。

「残念です、艦長。私たちばかり、なぜこうして三度も、突入の機会に恵まれないのでしょうか。武運に見放されているのでしょうか」

「隊長、君の気持はよくわかっている。なにも君たちが悪いのではない。艦長の俺が、へまなことばかりやったからだ。許してくれ」

「いいえ、艦長を責めて申し上げるのではありません。武運に恵まれないことを嘆いているのです。最後の訣別をかわしてきた戦友の前に、このままおめおめ生きて還るくらいなら、いっそのこと、思い切って自決してしまいたい気持です」

「犬死ならいつでも出来る。金剛隊でも神武隊でも、今度の多々良隊でも、大事な生命をつなぎとめることが出来たのだ。短気を起してはいかん。絶好の死処を得るまでは、生死を超克して進むのだ。いいか。判ってくれるか」

(鳥巣建之助,折田善次.(1958).『回天特攻作戦の全貌(丸 臨時増刊より)』.潮書房.頁:248)

 この時、あたりはすっかり暗くなっていました。

 

31日については他の証言も残されています。 多々良隊隊員であり、生還された回天搭乗員・横田寛さんの著書「あゝ回天特攻隊」によると、折田艦長の証言と同じくその日は明け方に内之浦(書籍には「種子島の~」とありますが、Googleマップで調べると志布志湾にありました)に入港したそうですが、横田さんは疲れのため日が高くなるまで熟睡していました。

士官と下士官の寝る場所はそれぞれ別の場所なので、前田さんが横田さん達を起こしに行き、柿崎隊が全員集合したところで柿崎さんが作戦中止・基地帰投が決まった事を告げ、全員に衝撃が走ります。

甲板の回天を見に行くと、とてもひどい有様。回天だけではなく、艦もズタボロで、全員放心状態です。すると後ろに立っていた折田艦長が、「再起をはかろう」と声を掛けました。

それに対し古川さんが、強い口調でこう言いました。

「艦長、なんとかなりませんか。われわれはねえ、この前も帰ったんですよ。こんどもまた帰るなんて、いったいどのツラ下げて帰れるんだ」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:269,270)

当時折田艦長は海軍少佐、古川さんは上等兵曹。上下関係が非常に厳しい軍隊で、普段では考えられないような状況が起こり、横田さんは「思わず、ひゃっとした」そうです。

隊長である柿崎さんが咄嗟に古川さんをたしなめ、折田艦長に謝ります。その時の詳しい状況はぜひ「あゝ回天特攻隊」にてご確認ください。

そして折田艦長が去った後、柿崎さんは隊の5人に、諦めたような言い方でこう告げました。

「みんな、いいか。おれを中心にして、行動をともにする約束だったぞ。呉に帰れば、一週間で修理ができると艦長がいっていた。すぐまた出られるのだぞ。古川、わかったな。今回は黙って帰ろう。」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:272)

  

横田さんの手記、折田さんの証言、この二つの時系列を考えると、横田さんの手記のお話→折田さんの証言の順番で出来事が起こったのだと思います。

改めて状況を整理すると…

31日早朝に内之浦に停泊、日中に柿崎隊全員が状況を目の当たりにし、古川さんは気持が抑えられず艦長に物申してしまいます。柿崎さんは隊長として古川さんを制止し、艦長に謝り、隊員を励ましました。

夕方、柿崎さんは一人回天のそばで腰を下ろし頭を抱えて泣いていました。そこに現れた艦長に対し、自分の胸の内を明かし、自分の状況を嘆きます。艦長は柿崎さんの言葉を受け止め、彼を励ましました。

 

隊長としての役割をしっかりと果たし、隊員をまとめあげ、士気を下げぬよう配慮をされていた柿崎さん。しかし心は古川さん同様、爆発寸前でした。

 柿崎さんの詳しいお話は柿崎実中尉のまとめを読んでいただきたいのですが、彼は多々良隊の前にすでに2度出撃し、帰投しています。

回天搭乗員が出撃する際は、出撃数日前〜前日に壮行会が開かれ、偉い人や他の隊員と別れの盃を交わし、最後の大騒ぎをします。当日も短刀授与式が行われ、戦友たちに「頼んだぞ!」と見送られながら「征きます!」と叫んで出撃します。この時搭乗員たちは、これでもう日本の土を踏む事は、日本の美しい風景を見る事は2度とないと、任務を果たさねばと、覚悟を決めた事でしょう。

柿崎さん、前田さん、山口さん、古川さんは多々良隊時点でこれを3度行いました。

この事について改めて考えると、古川さんや柿崎さんが仰った言葉の重みを感じられると思います。

 

もう一つの柿崎さんの涙に関する証言は、金剛隊で出撃し、突入中止となり帰投した際の事。

小灘さんの著書「特攻回天戦」にその記述があります。

戦後、小灘はある級友から、柿崎実のことを聞いた。

彼は「金剛隊」の長い航海ののち呉軍港の宿で、居合わせたその級友と飲んだのだが、そのとき彼はひとり声もなく泣いていた、というのである。

(小灘利春,片岡紀明.(2006).『特攻回天戦:回天特攻隊隊長の回想』.光人社.頁:115)

 小灘さんは、柿崎さんと一緒に回天隊へ配属された兵学校同期です。柿崎さんは基地に帰ってきた後も、表情を変えることなくいつも通りにふるまっていたため、柿崎さんの苦悩に気づくことはありませんでした。戦後に級友の方からこのお話を聞いて、愕然とされたそうです。

 

 

日本人として、軍人として、兵学校出身として、回天特攻隊として、搭乗員として、隊長として…あらゆる責務と、出撃帰投を繰り返す状況。柿崎さんの人生には、抱えるにも大きすぎるものが、あまりにも多くのしかかりすぎていました。しかしそれを、その事への苦悩を、周りに気づかれることもなく、普段通りに振る舞えた、その精神の強さ。それは彼の涙が裏付けていると感じました。

彼の人生は、彼だからこそ全うする事が出来たのだと、深く頷けます。