紫紺の空の一つ星

趣味まるだしのブログ。回天特攻隊が中心。ご来訪頂き感謝致します。

私が歴史に対して勘違いしていたこと

※注意※

思ったことをそのまま心の整理としてつらつらと書き綴っているので、間違っていたり、文章がおかしかったり、読みづらかったり理解不能な部分があるかと思いますが、ご了承ください、、。笑

 

 

私はずっと、歴史を調べれば、絶対的な(この時点で、世の中絶対なんてものはないよっていうツッコミは我慢してください…話が終わってしまいます…←)事実を知れると思っていました。

この時代(大東亜戦争)に興味を持ったのも、「本当はどうだったのだろう?」という、事実を知りたい気持ちからでした。

 

しかし、調べていくうちに、一つであろう「事実」を知ることはできないということに気づきました。

資料に書いてあるからそれが100%あったとは言い切れないし、逆に書いてないからそれが100%なかったとも言い切れない。

実際にこの目で現場を確認できないので、可能性的な話はできても、絶対は言い切れません。過去が過去である以上、確実なものは掴めないのです。

 

例えば、私が友人にポロっと言った一言も、私またはその友人が形に残るもので記録しない限り未来には残せないので、未来人からすれば私の一言は「なかった」ことになってしまう。実際は「あった」のに。

この話の逆も然り。(言ってもない事を書かれて言ったことにされている、とか)

そして私がいなくなった未来にいる未来人は、過去に行ってその現場を確認することができないので事実はわかりません。

…例えがクソみたいですみません。笑

 

そんなこんなで、だからこそ書物や記録などから解釈し、歴史を定めるのだな、と分かりました。

これが所謂世の中での「歴史的事実」であり、そしてそれは私の思っている「100%の事実」とは違うものでした。

 

そもそも、今私たちが生きているこの時間だって、1分1秒過ぎれば過去のものになります。

さっきテーブルに出してたコップも、出てた時は出てた事が事実でも、しまってしまえば、記録をしたり写真を撮ったりしていなければ事実としての証明ができないことになるから…ここまで考えて脳みその運動が止まりました。笑

 

話はそれましたが、この話題は

「事実とは言えないものなら、もう何も信じない!」

とかいう話にしたいのではなく…笑

 

歴史的事実は、歴史を決める偉い人たちがどう解釈し、どう定めるかによって、(もちろん、事実に一番近いであろう事が)残ったり変わったりしていくものだと、私は理解しました。

であれば、先人たちが残してきた、そして歴史研究家の方々が見つけ出した様々な情報を、自分はどう解釈し、何を信じるか。そしてそれを自分に、現代に、どう活かすか。

何を歴史に残したいか。

何を後世に伝えていきたいか。

私が歴史を調べ、知る、本当の理由はここにあるな、と思いました。

 

私は回天隊を歴史に残したい。

彼らの生き様を、言葉を、思想を残したい。

これからも調べ、学び、発信していこうと思います。

「18歳の回天特攻隊員の遺書」に今思うこと

tnavy.hatenablog.com

1年以上前に謎を深めて終わった(←)こちらの記事が結構読んで貰えているようなので、今私がこの話について思っていることを書こうと思います。

 

結論から言いますと、「18歳の回天特攻隊員の遺書」として広まっている遺書は、回天搭乗員の遺書ではない、というのが個人的見解です。

 

前回調べた内容からさらに追加で、岡村さんが書籍で言っていた南の島、「マーシャル諸島(書籍ではマーシャル群島と表記)」について調べてみました。

マーシャル諸島は、1944年の2月にアメリカ軍によって失陥し、当時その島々で戦っていた方達の一部は敵に囲まれたまま孤立した状態となり、終戦まで米軍からの爆撃や飢餓に苦しんだそうです。

潜水艦に関しても、失陥直後にマーシャル諸島への補給命令がでたものの、

「潜水艦輸送は昭和十九年六月までに、わずかにミレに二回、クサイに一回成功しただけで、六月中旬以降マーシャルに対する輸送は中止され、敵中にとり残された部隊は、生存非常に大きな苦難を味わうことになったのである。」

(「中部太平洋陸軍作戦第1(マリアナ玉砕まで)p.239)

とのことで、昭和19年12月時点で八雲へ着任された岡村さんがその後マーシャル諸島に向かうこと、そして島周辺に潜水艦が向かうことはあまりにも困難ではないか?と思いました。

 

ここまでくると、前回の記事で述べたような「様々なことに配慮して架空の設定を織り交ぜたり」という部分的な創作ではなく、完全創作、小説の域です。

お話されているすべてが記録にはない事柄なので、これは事実上回天特攻隊員のものである、とは言えません。

 

ただ、回天特攻隊の方のものではないとしても、遺書自体の存在は、私は否定しません。

理由としては、遺書自体が存在しない事が証明されていないからです。

私自身、遺書等の個人の物は、公然?の物品や事柄とは違うという認識なので、存在を確認、または有無を当事者に確認しない限りは断定できません。そして、無理にしなくていいものだとも思います。

 

ここからの話は私の想像…というか行間読みまくったオタクの妄想なんですが…

万が一遺書自体が存在せず、内容全てが岡村さんの作ったものだったとしても、その遺書を考えたのは岡村さん自身ということになります。

回天隊を熱望しても選ばれなかった事、多くの予備学生が戦死した中戦争を生き延びた事(現代の私達の目線から見れば幸運にも、ですが…)、岡村さんにのしかかっているものを考えると、岡村さんの当時抱いていた覚悟というか、気持ちのようなものが、垣間見れるような気がします。(妄想失礼しました)

 

改めて、この遺書は回天特攻隊の方のものだとは、私は思っていません。

現在進行形で、回天隊の話が出た際にこの遺書の話がとりあげられることは多々ありますが、もっと広がってほしいと私が思っている回天隊の方々の言葉は山ほどあります。

メディアによって急速に広まったこの話を見れば、声を大にしていかなきゃ広まらないということは十分に理解できます。

私はこれからも、その彼らの言葉を広めていく努力をしていこうと思っています。

 

令和最初の靖国参り、5月2日

今年の5月1日より、平成の時代が終わり令和の時代へと移り変わりました。

元号が変われど私たちの生活は何も変わりませんが、日本の歴史的な節目を目の当たりにできたということはとても光栄な事だと感じます。

回天隊の彼らが過ごした激動の時代である昭和から、元号が2つ変わりました。

平成に生まれ育った私ですが、とても幸せに生きてこれた事を感謝しています。そして令和の時代、国家、国民、そして世界までもが更に繁栄していくことを深く願っています。

 

さて、5月2日は私の尊敬している柿崎実中尉、古川七郎上曹、山口重雄一曹のご命日なので、毎年靖国参りをしています。

今年も、令和最初のお参りを兼ねて、靖国へ足を運びました。

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5月でも肌寒い日が多くて…この日も曇り空で、雨が少しポツポツしていました。

今年も柿崎さんが突撃された時刻に合わせて、拝殿にて合掌。

 

そのあとは御朱印をいただきました。
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令和元年の文字を見て、日本のつくる時代の流れの中に自分はいるのだな、とか当たり前のことを改めて考えてました。

日本は、日本として今日も時代を歩み続けていますよ。なんて、彼らに向かって心の中で呟いてみたり。

 

「鎮魂之賦 風ヨ雲ヨ」という、海兵72期の泉五郎さんが作詞された詩集があります。

その中の「海征カバ人間魚雷回天抄」より一部引用します。

「時ハ移ロイ人代ハリ

世ノ行ク末ハ知ラネドモ

変ワラヌモノハ唯誠

至高ノ愛ニ殉ジタル

純粹無垢ノソノ御霊

生マレ代リテ幸アレト

タゞ只管ニ祈ルナリ」

(「鎮魂之賦 風ヨ雲ヨ」p.16)

第40回特攻隊全戦没者慰霊祭

遅くなりましたが、忘れないうちに慰霊祭の簡単な記録を。

 

今年も特攻隊全戦没者慰霊祭に参列することができました。

今まで一人でしたが、今年は旦那さんがついてきてくれて嬉しかったです☺️

 

初めて車で靖国ってみたのですが、駐車場が靖国も周辺もどこもいっぱいで入れず…

とりあえず膀胱が限界だった私(←)は先に降ろしてもらったのですが、旦那さんは開始ギリギリまで駐車場探しに血眼に。笑

なんとか直前に間に合って一緒に参列できました!ありがとう旦那さん!

そして靖国は車で行ってはいけないことを学びました。笑

 

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今年も本殿にてご挨拶させていただくことができました。

改めての話ですが、靖国神社は私にとって本当に大切な場所だし、力をもらえる場所です。「彼ら」と時空を超えて対面しているような気持ちになるのです。

今年もそんな気持ちで、お祈りをしてきました。

 

さて、今年の靖国の桜です。
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ちょうど見頃で、お花見に来ている方もたくさんいました。

とっても綺麗だったな🌸
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屋台もたくさん並んでました!


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そうそう、慰霊祭でのお土産のお菓子、変わったんですよ!
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おまんじゅうから瓦せんべい的なやつに。

おまんじゅうも美味しくて大好きでしたが、おせんべいも美味しいです🤤

旦那さんがもらった分もあるから、2箱食べられて幸せだ!←

人間魚雷(回天)を考えた若者たち

日本に特攻兵器として初めて誕生した、回天。

後に回天という名前となる人間魚雷を発案したのは、海軍機関学校出身の黒木博司さん、そして海軍兵学校出身の仁科関夫さんだという話はとても有名です。

しかし人間魚雷というものを考えていた人は、実はこの2人だけではありません。

さまざまな場所で当時の戦争に直面していた若者たちが、人間魚雷、体当たり兵器の採用を訴えていました。

その中で、実現までこぎつけたのが黒木博司さん、仁科関夫さんでした。

 

今回は、自分の頭の整理として、人間魚雷を考えた人をここに挙げておきたいと思います。記述に誤りがあった場合、ご指摘頂けると幸いです。

また、記事に書いた方々以外で、人間魚雷を考えた方を知っている方がいましたら、ぜひ教えていただきたく思います。

(※和田稔さんに関しては、ドイツの人間魚雷に関して述べているという話もあるので、こちらには記述しておりません)

 

目次 

 

◆竹間忠三さん

兵学校65期。

呂106潜の水雷長だった竹間さんが人間魚雷の構想の意見書を上層部に提出したのは昭和18年の初め、26歳の時。

意見は却下されましたが、竹間さんがこの意見書を提出した理由について、

「これは特修科学生中の同僚の体験談と、第七潜水戦隊司令部勤務中の第一線潜水艦の運用状況から、将来の潜水艦戦の様相を汲みとり、対策の早期確立の必要を感じたからであろう」

と、同期の菅昌徹昭さんは仰られています。

(「第六十五期回想録」p582)

 

◆沢崎正恵さん

支那事変に従軍されていたご経歴があるので、今回ご紹介する方々の中では最年長だと思われます。

昭和18年6月、「絶対に敵の空母を沈めることのできる兵器を開発して、起死回生をはからねばならない」との思いで人間魚雷の設計を開始。

翌年1月に完成し、その翌月に、自分が乗るつもりで海軍軍令部へ嘆願書を持ち込みました。

嘆願書は採用されませんでしたが、沢崎さんは後に新聞で回天の存在を知り「私の考案した兵器に乗って死んでいった若者がいる——と複雑な気持でした——」と語っています。

(恩田重宝氏著「特攻」p304〜307)

 

◆近江誠さん

兵学校70期。

昭和18年、伊165潜はインド洋で敵駆逐艦にズタズタに攻撃されます。その航海長だった近江さんは、「一人が相手を道ずれにして死に、味方の九十九人が助かる方法はないか」と考えた結果、人間魚雷の構想にいきつきます。

同年末~昭和19年初め頃、自分が乗るつもりで血書嘆願を上層部に提出しました。

近江さんの生年月日は不明なのですが、70期なので当時20代前半だと思われます。

後に回天基地へ赴任されました。

(上原光晴氏著「「回天」に賭けた青春」p97~99)

 

◆橋口寛さん

兵学校72期。

昭和19年巡洋艦「摩耶」に乗っていた橋口さんは、人間魚雷兵器を血書嘆願しています。当時19歳か20歳あたり。

その後、回天基地への転任の辞令が出されます。

(小灘利春氏・片岡紀明氏著「特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想」p25)

橋口さんの資料不足で詳しいことはわからずです…(;;)

 

◆三谷与司夫さん

兵学校71期。

昭和19年10月、駆逐艦「桐」の水雷長だった三谷さんは、守るべき空母4隻を失った捷一号作戦からの帰投中に、「この優秀な魚雷を敵艦に当てるには人間が乗っていくしかない」と考え、絵を描いた志願書を艦長に提出しました。当時21歳。

帰投後、回天基地へ転任されました。

(「関西ネイヴィクラブ講演録(平成7年5月23日)」p190)

 

◆深佐安三さん・久良知滋さん・久戸義郎さん

三人とも兵学校71期。

彼らの考えていたものこそが、後に「回天」と呼ばれる人間魚雷の原点です。

昭和18年12月、当時20~22歳あたりの三人の青年士官が、使われていない93式魚雷の活用方法と戦闘方法について毎晩考え、話し合っていたのが始まりです。

翌月、同じ基地(特殊潜航艇の基地、P基地)にいた設計に詳しい機関科の黒木さん(後述)と、三人と同期の仁科さん(後述)も加わり、5人で回天の実現化に励むことに。

やっとの思いで設計図を完成させ、五人でP基地の司令へ提出しますが、処分されてしまったので、今度は海軍関係のあらゆる場所に、司令に内緒で送りました。

その年の2月、上層部が人間魚雷の構想に関して興味を示したため、さっそく試作の話が持ち上がりました。

が、これからという時に、三人は辞令により回天に携わることができなくなり、回天の実現はその後黒木さんと仁科さんが行っていきました。

回天の原点をつくりだした三人ですが、回天搭乗員にはなれませんでした。

(上原光晴氏著「「回天」に賭けた青春」p23~25,118~121)

 

◆黒木博司さん・仁科関夫さん

黒木さんは機関学校51期、仁科さんは兵学校71期です。

人間魚雷のことではないものの、黒木さんが特攻兵器に関して血書嘆願を上層部に提出したのは昭和18年3月、21歳の時。その後人間魚雷の構想もねり始め、10月には同期たちに人間魚雷の血書嘆願に署名血判をお願いしています。

12月、2ヶ月前にP基地に赴任してきた仁科さんと同部屋になり、思想等が似通っていた二人は、すぐに意気投合。仁科さんは兵科の知識で人間魚雷の構想を助けました。

同年末に二人で海軍省へ図面を持っていき、その当時考えていた人間魚雷の採用を直接訴えました。

翌年の1月から試作までの話は前述したので省略します。

上層部は脱出装置をつけることにこだわりましたが、彼らの脱出装置不要との申し入れによりこれを取りやめ、7月にようやく完成。

走航テストが黒木さん・仁科さんの操縦で行われ、見事成功し、その後正式採用されました。その当時黒木さんは22歳、仁科さんは21歳です。

(吉岡勲氏著「ああ黒木博司少佐」p282~284,305~306)

(上原光晴氏著「「回天」に賭けた青春」p100~103,106~108,130~131)

 

◆彼らの人間魚雷考案に私が思うこと

直接ご本人たちに聞いたわけではないので(当たり前)、ここからは私個人の見解です。

違うご意見があるという事も承知で書いていますので、「こんな考えのやつもいるんだな」ぐらいに思っていただけたら幸いです。 

当時を実際に生きたことがない私たちから見るとなかなか理解しづらい、というか、ほぼ理解は不可能なことだと思いますが、別々の場所や所属にいたにも関わらず、10名が10名、同じ「人間魚雷」というものに固執したのは、当時の状況下で、そこに何か見出せるものがあったからなのではないかと、私は思っています。

また、彼らは今でいう超絶エリートな方々。頭がものすごくいい人たちばかりです。

そして生前のエピソードや家族宛の手紙を調べると、とても家族思い、兄弟思いな方々です。

私は、そんな彼らだからこそ人間魚雷を考えたのだと思っています。

自分たちが始めたわけではない戦争の中、軍人として前線にたち、愛すべき家族や生まれ育った祖国を思い、同胞を思い、軍人である自分たちの立場から、さまざまなことを思い、苦悩し、必死に考えていたと思います。そんな中から生まれたのが人間魚雷の発想だったのではないかな、と。

表面的に見ると、彼らは「特攻兵器に拘った」ということになりますが、決して「必死」をゴールにしていたのではないでしょう。必死はあくまでも過程であり、ゴールではないと思います。

彼らにはその先に、自分たちにとって最も大事なものが見えていたのではないでしょうか。

そして、その大事なものを守るために、その当時一番最善で効率的な兵器、それが人間魚雷だった…

と私は考えています。(個人の見解なので(念押し))

※この見解は、回天兵器の善悪の話ではありません。また、創案者以外の方の話は出していませんので、どちらともご了承ください。

 

文春文庫より出ている「特攻 最後の証言」という本に、海兵72期で八丈島の基地回天隊隊長だった小灘利春さんのインタビューが載っています。

その一節より。

「私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っているんですね。一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。戦後の新聞はやれ、愚かな戦争とか愚かな特攻隊員などと書きたがりますが、回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか」(「特攻 最後の証言」政策委員会/「特攻 最後の証言」P.100)

 

平成30年度回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式に参列してきた

去年初めて参列した回天の追悼式。

今年も絶対行く!と決めて去年からはりきっておりました。

が、しかし…

去年一緒に行っていただいた友人Kさんは家庭の事情で参列できず…

旦那さん(彼氏から旦那さんになりました笑)に一緒に行かない?と誘ってみるも、最近まで仕事で山口いたせいか、いや、私が今年すでに2回も大津島に連れて行ったせいか、「山口はもういーわ」と…←

一人で参列するのもなかなか勇気いるし、なにより一人でホテル泊まるのが苦手で苦手で…

思い切って母に「一緒に行って!一人で泊まれないから泣いちゃう!」とお願いしてみたら、あっさり「行ったことないから、えーよ(・∀・)」と言ってもらえ、今年は母と参列してきました!笑

 

ということで、いつものごとく徳山に前日入り。

当日大津島で寿美屋さんの和菓子販売があることは知っていたのですが、我慢できなかったので前日に最中を購入。笑

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ノーマル回天の方は初めて食べたのですが、上品なお味でとてもおいしい!

母はさくら最中回天を気に入ってました。

 

式当日。

高速船に乗って9時過ぎに大津島へ。

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バチボコに晴れてた!

去年も晴れてて暑かったですが、今年も同じく全く寒くなく雲もほとんどなし。

でも紅葉が始まりつつあって秋の訪れも感じられました。

 

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さっそく私のお気に入りスポットへ母を案内。

やっぱり何度見ても飽きないこの景色、そして波打つ音。


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次に魚雷発射場跡へ。
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釣りしてる人が結構いたので海をのぞいてみたら、魚めっちゃいた。

 

記念館のところまで登って、追悼式の受付をしました。

受付横では回天の手ぬぐいとか本とか、あと枡?も売ってました。
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お花がすごく豪華で色鮮やかで、とってもきれいでした。

 

式までは時間があったので、石碑にお供えしに。

前回は、前日に「鶴お供えしたい!」と突然思いついたので隊長プラスα分ほどしか折れなかったのですが、今年は全員にお供えしようと思って、1か月前からせっせと準備しました。f:id:tnavy:20181112161258j:image

旦那さんが半分くらい手伝ってくれました…←

そして柿崎隊、黒木さん、仁科さんにはお菓子のお供えも。

鶴をお供えしてると、おじいさんに「全員分?ありがとう」って言ってもらえて、嬉しかったです;;

 

日差しが暑かったので日陰で待機していると、女性の方に話しかけてもらいました。

10年ほど回天の追悼式に来られてるようで、回天ガチ勢(この分野の名前がわからないので仮称で)の先輩のような方でした。色々なお話をしていただいて、私が知らないだけで回天ガチ勢の女性はたくさんいるんだということがわかり、嬉しくなりました!

そして、回天を調べたりしている方のお話ってとても勉強になるので、いつか男女問わずガチ勢の方々と集まってお話できたらいいなあ…なんて思ったり。

 

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式のパンフレットは、発射訓練基地などの説明や、参列されたご遺族の烈士名、最近の回天に関する新聞記事など、前回よりもボリュームアップした印象。

式も前回と同様順調に進んでいきました。

中学生の女の子のスピーチは、スピーチの仕方、内容共に素晴らしくて目が離せませんでした。彼女の話で印象的だったのは、「平和の尊さを知るには戦争をちゃんと知ること、目をそむきたくなる内容のものにも目をそむけないこと」的な内容でした。

本当に大切な事だと思います。

私が彼女ぐらいの歳の時は、歴史の授業でやる戦争ぐらいしか知らなかったし、遠い昔のことだから自分にはあんまり関係ないと思ってたし、白黒の写真とか、ケガしてる写真とか「こわーい」とかいって目もむけませんでした。

怖いと言って見なかったり聞かなかったり、誰かが言っていることだけを鵜呑みにしたり、そういうことではなく、自分の目と耳で、しっかりと当時を知っていく作業、これほど大切な事はないと思います。

ボランティアで式や事前準備に参加されている若い方々、本当に尊敬します…!

 

式が終わった後は、母だからこそ頼めることを…

記念撮影が行われていた場所で、写真を撮ってもらいました。
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今は葉っぱボーボーで当時と景色はだいぶ違いますが…

当時ここでこんな風に写真を撮っていたのか、と再認識すると、なんだかじんとくるものがありました。

中二なのでさっそくツイッターのアイコンにしました。

なぜか人差し指を握りしめていますが、気にしないでください。


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フェリーの時間があったので、「また来ます!」と烈士の方々に心で語りかけ、のんびりせずに記念館を去りました。

 

遅めのランチはカフェクラブミルというカフェで。

初めて入ったのですが、すべての席が半個室状態だし、装飾や家具、色合いが可愛すぎてテンションMAX!

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ドイツパンのサンドとグラタンのセットを注文。

全部おいしすぎて秒で完食。


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デザートに紅茶のシフォンケーキとコーヒー。

シフォンケーキはフワフワで、クリームは甘くないさっぱり系。

コーヒーはミルクも砂糖も必要ないレベルの味。

絶品にもほどがありますって!!(^q^)

こんなにおいしくて感動するカフェは久々でした…

次徳山来たときは絶対ここいく!毎日いくー!

 
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龍神の雲が浮かぶ徳山の空を見つめつつ、帰路につきました。

 

今回は母と大津島に行けたし、色々な方々とお話しさせていただいたし、いいカフェ見つけちゃったし、とても嬉しい旅でした。

何度も何度も旅行しに来ている場所だけど、やっぱり私はここが好きなんだなって、改めて実感しました。

また行くぞー、徳山!

 

www.news24.jp

三好守中尉の人柄

元搭乗員の予学の方々の証言を読むと、考え方の違い等あって、やはり兵学校出、機校出の士官については良く書いている方はあまり見かけません。

もちろん、そうじゃない方もいることと思います。

兵機の方と予学の方の証言、どちらも読んだ上で意見を述べると、お互いにお互いの立場を経験したことがないゆえに、分かり合う事が難しいのは当然のことだと思います。

「軍人」としての教育を受けてきた者と、「学生」として学問を学んできた者。あらゆる面が違うのは当たり前です。

立場の違いにおける問題は、兵機と予学の間だけではなく、現在の私たちでも言える事ですよね。学校や仕事での人間関係等で…

三者から見ても、各々のものの感じ方、捉え方、考え方の違いは、どちらが合ってるとか間違っているとか、判断できるものでもありません。

 

本題の前置きが長くなってしまいましたが…

そんな予学の方々の証言で、よく三好さんの名が上がっている印象を受けます。

しかも内容は決まって「いい士官だった」という高評価!

予学を差別する士官が多かった中で、三好さんは差別なく「仲間」として接してくれた、と。

こういった証言を見ても、三好さんが如何に人に対する愛情が深かったかよく分かります。

 また、如何に周りの人々に愛されていたかも…。

横田さんの本を見ても、三好さんは部下のために泣き、部下は三好さんのために泣いていました。こんなに愛が深い関係が軍隊にあったのか、ととても驚いた記憶があります。

 

隊の自己紹介でも「三好清海入道!」と言ってしまう破天荒っぷりも、人気の一つかもしれません。

兵学校73期の本に、「皇族の下級生に物怖じせず指導したのは三好だったはず…」というような内容が書かれていた(うろ覚えゆえめっちゃ要約しててすみません)ので、人目を気にせず、信念で行動ができる人だったのだと思います。

 

私は回天隊の方々を「愛の人(愛情深い人)」だと思っていますが、その中でも三好さんは特に「愛の人」です。

彼自身が遺した言葉は他の方に比べて少なく、本人が実際にどういう考えの持ち主だったのかということはあまりよくわかりませんが、色々な方の証言でこのことだけは確証できます。

三好さんの日記とか自啓録とか…読みたい人生だったナ…

 

最後に。

神津直次さんの本「人間魚雷回天」に、三好さんが宴会の席で歌ったと書かれていた「煙草屋の娘」を貼っておきます。


煙草屋の娘(岸井明・平井英子)(佐川ミツオ・渡辺マリ)~ZENZI