紫紺の空の一つ星

趣味まるだしのブログ。回天特攻隊が中心。ご来訪頂き感謝致します。

勉強とは何か、黒木博司大尉に学ぶ

私たちにとって、勉強とは何か。

私たちは、何のために勉強をするのか。

勉強するにあたって、何を大切にするのか。

回天特攻隊員に教えてもらった「勉強」に対する考え方 - 紫紺の空の一つ星で、黒木さんが妹さんに宛てた手紙より、黒木さんの勉強に対する考え方をご紹介しましたが、今回は黒木さん自身がどういう心構えで勉強をされていたのかという話が見つかったので、改めてご紹介します。

勉強に励まれている学生さん、そして大人の方も、勉強という観点から自分と向き合うきっかけとなれば幸いです。

 

関学校51期会誌の「松尾寺」(12号)に、山鳥次郎さんか寄稿された「楠公回天祭参列記」。その中に、黒木さんの勉強に対する考え方が載っていました。

山鳥さんは黒木さんと機関学校同期。入校前日の旅館の部屋割りで黒木さんと同室となり、機関学校前の桟橋に横付けしてある軍艦吾妻を一緒に見に行きました。その際吾妻を珍しがった山鳥さんに色々と説明をした黒木さんですが、すでに艦船のみならず海軍全般の知識が豊富で、海軍軍人としての信念・使命感を持っていた黒木さんに対し、山鳥さんは驚いたとともに、「彼は将来間違いなくわが級のリーダー的存在になる」と確信したそうです。

山鳥さんが第20回楠公回天祭に参列された際、その直会でお話しされた挨拶文の中の「ロ、在学中―黒木の学習態度―」を引用します。

彼は頭脳明晰、稀にみる秀才であった。

彼の学習態度は一風変わっていた。しかし、現在の試験地獄を考えると、彼のやり方こそ本当の姿なのかも知れない。

彼は、学校在学の間に、将来機関科将校となった時に必要な、学識、技能を習得しておくべきであるという信念にもとづいて、学期試験日とは全く関係のない、彼自身の学習計画を作り、それを着実に実行していたのである。

普通、我々は、試験日の前には一夜漬けで、人によっては休日の外出も返上して、試験に備えたものであるが、彼は「このような点取虫的な学習方法では、試験が終れば、全部完納してしまい、全く自分の身につかない」と主張し、これらの学習態度を極端に批判していた。

現状の入学試験地獄、現行の教育制度をみるにつけ、大いに反省改善せらるべきものと思う。

 

「現行の教育制度」の中で何の疑いもなく育った私にとっては、あまりにも衝撃的な話でした。前々から黒木さんのことは天才だと思っていましたが、それを改めて確信しました。

黒木さんの機関学校卒業時のハンモックナンバーは 61/93番(私の数え間違えでなければ…←)で、上位ではありませんが、山鳥さんのお話を読めば全く不自然ではない数字だと思います。自分がその時必要だと感じている勉強と、学校側からその時求められる勉強は、必ずしも一致するわけではないですからね。

関学校在学中には、こんなエピソードも。

(前略)休時間も公の生活では自由に使えずきめられた自習時間は足らぬのみにて結局読書は夜起きて便所の中でやるより方法がなく、今朝も二時に起き、シャツを着込んで三時間半程目的をとげました。(中略)又夜中に起きる為には夜床につく前、水をコップに一杯半程呑んで置けば大体思う時刻に加減して目がさめますよ。(後略)

 (吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:116)

学校の勉強に加えてさらに自分の知りたい、学びたい事には睡眠時間を削ってでも時間を割きたい、という程に、本当に勉強熱心であった黒木さん。

熱血という言葉は彼の為にあるのではないか?と思うほど、その人生は熱意と行動で溢れていますが、勉強面でも熱血ぶりが凄まじいです。

 

黒木さんの小さい頃はどうだったでしょうか。棡原小学校6年の途中に黒木さんが岐阜へ引っ越すまでの間担任をされていた原田憲先生の証言をご紹介します。

 (前略)五年生の二学期に教師用の参考書を兎も角も読む程の力を黒木君は持ってゐられたのだった。黒木君はその頃よくいろいろの本を読んでゐて学校の教科を家庭で勉強する時間は少なかった。その為、君のお父さんは心配されて、こんなことでは来年中学へ入るのに心配で仕方がないと私に語られたのを今も思ひ出してゐる。家の人がそんなに心配されても、本人は僅かの予習復習で間に合ってゐるものだから相変らず少年小説を読むことをやめなかった。(後略)

(吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:19)

小学校の教科は、すべてにおいて優れていたそうです。学校の勉強もよくできて、何の枠にも囚われずに自らの探求心を育て、自分に必要な知識を蓄えていきました。黒木さんの熱血且つ独創的な学習態度が確立されていったのは、彼にもともと備わっていた性質が大きく関係しているようです。

 

岐阜中学校時代の下宿先の松倉照道さんは、岐中当時の黒木さんの性格をこのように振り返っています。

黒木は疑問な個所があると、とことんまでつきつめてゆく性格であった。だから授業中でも、ぐんぐんつきこんで質問する為、教師からは理窟屋だとしてもてあまされることもあった。(中略)

実際、学校で習ったことで判らないことがあると、私にいつも

「おじさん、どう思ふか」

とたづねた。世間的なことは私の考を話したりしたが、特殊なことは自分で図書館へ行った。そして自分で思ひ違ひをしてゐた事、先生が誤ってゐたことなど一々明らかにして私に告げた。

黒木はよく新聞を読んでいた。そしてどんな大人とも自由に話題を捉えて対坐する力を持ってゐた。

(吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:37) 

 

 

機校在学中、周りから「変わった奴」と思われている自覚があったそうです。しかしその事を気にしたり、「普通になろう」と自分のスタイルを変えるような事はしませんでした。それは黒木さんが自分の人生の目的・天命を軸に生きておられたからです。

誰かに決められた範囲・内容ではなく、すべて自分が決め、自分のための、自分を貫いた学習。そして何より、あらゆる事に好奇心、興味を持って接し、自分が納得するまで探究するということ。

勉強以外でも彼はそうですが、勉強という観点から見てもここまで自分の意志を貫けていることに、ただただ尊敬あるのみです。

 

本当の勉強とは、自分の人生の目的に付随するものです。勉強の全ては自分の人生のためなのです。

自分がしたいことは何か、自分が知りたいことは何か、自分に必要なものは何か、一番重要なことはあくまでもこれらであるということを、忘れないでください。