紫紺の空の一つ星

趣味まるだしのブログ。回天特攻隊が中心。ご来訪頂き感謝致します。

柿崎実中尉の涙

涙を流す、泣く、という事。

涙を流す理由としては、悲しさ、怒り、悔しさなど、何かしらの感情が込み上げる事があげられますが、今回は理由や感情ではなく行為そのものについて考えます。

そもそも、泣くという事はどういう事なのか。

泣く行為というのは弱虫とか恥ずかしいとか女々しいとか、一般的に考えるとそんなイメージがついていると思いますが、実は精神的に強い人ができる事なのです。

泣く事は、自分の感情、自分の弱さと向き合い、そのままをきちんと受け止めている行為であるという事。泣くのを我慢して、その感情をなかった事にするというのは、自分の弱い部分や、悲しい・つらい・悔しい…などと感じた事を押さえつけ、見なかった事にする、イコール、自分のありのままを認めない、という事になります。

自分を認め、どんな自分であろうと自分自身としっかり向き合えているからこそ、涙を流し、感情を開放できるのです。

「ありのままの自分を認める」「自分と向き合う」文字にするのは簡単ですが、実際やるとなると大変困難であり、そして終わりなきことでもあります。

自分自身と向き合う力と根気強さがある人=精神的に強い人は涙を流す事ができる、という事はお分かりいただけたでしょうか。

 

私が尊敬している柿崎実中尉には、「泣いていた」とされる証言が二つ残されています。

一つは昭和20年3月31日。

それは同年3月29日、多くの戦友に見送られ光基地を出撃した多々良隊、柿崎隊長以下6名を乗せた伊47潜が、30日に米軍の攻撃により負傷し、作戦中止・基地帰投を決めた日です。

伊47潜艦長である折田善次さんは、その日柿崎さんが「なぜ自分たちだけ突入の機会に恵まれないのか」と嘆いたという証言を残されています。

回天刊行会の「回天」や上原光晴さんの著書「「回天」に賭けた青春」、ザメディアジョンの「人間魚雷回天」等にもそのお話が載っていますが、雑誌「丸」の臨時増刊「特集・神風と回天」に載っている鳥巣さんと折田さんの記事では、その時の状況が詳しく書かれているので、今回は丸から引用します。(※臨時増刊の発行年が昭和33年なのですが、この記事自体が昭和32年の5月号から14回にわたって本誌に連載されており、それをひとまとめにしたのがこの臨時増刊だそうです。)

 

丸臨時増刊によると、31日早朝に内之浦港に入港して艦の調査、艦隊司令部への報告等を行い、日も沈みかけた夕方、折田艦長は艦橋にて一人で煙草を吸っていました。

ふと窓越しに前甲板を見ると、6号艇(回天)のかげに柿崎さんがしょんぼり腰をおろし、頭を両手で抱え込み思い悩んでいるような様子が見えました。

艦長は柿崎さんのもとへ行き、「暗くなったから艦内にはいれ、風邪をひくぞ」と声をかけます。

 柿崎さんはその声にはっとしたようで、袖で顔をふいて立ち上がりました。なぜ袖で顔を拭いたのかというと、泣いていたからです。

二人はしばらく無言でしたが、柿崎さんから先に口を開き、このような会話をしています。

「残念です、艦長。私たちばかり、なぜこうして三度も、突入の機会に恵まれないのでしょうか。武運に見放されているのでしょうか」

「隊長、君の気持はよくわかっている。なにも君たちが悪いのではない。艦長の俺が、へまなことばかりやったからだ。許してくれ」

「いいえ、艦長を責めて申し上げるのではありません。武運に恵まれないことを嘆いているのです。最後の訣別をかわしてきた戦友の前に、このままおめおめ生きて還るくらいなら、いっそのこと、思い切って自決してしまいたい気持です」

「犬死ならいつでも出来る。金剛隊でも神武隊でも、今度の多々良隊でも、大事な生命をつなぎとめることが出来たのだ。短気を起してはいかん。絶好の死処を得るまでは、生死を超克して進むのだ。いいか。判ってくれるか」

(鳥巣建之助,折田善次.(1958).『回天特攻作戦の全貌(丸 臨時増刊より)』.潮書房.頁:248)

 この時、あたりはすっかり暗くなっていました。

 

31日については他の証言も残されています。 多々良隊隊員であり、生還された回天搭乗員・横田寛さんの著書「あゝ回天特攻隊」によると、折田艦長の証言と同じくその日は明け方に内之浦(書籍には「種子島の~」とありますが、Googleマップで調べると志布志湾にありました)に入港したそうですが、横田さんは疲れのため日が高くなるまで熟睡していました。

士官と下士官の寝る場所はそれぞれ別の場所なので、前田さんが横田さん達を起こしに行き、柿崎隊が全員集合したところで柿崎さんが作戦中止・基地帰投が決まった事を告げ、全員に衝撃が走ります。

甲板の回天を見に行くと、とてもひどい有様。回天だけではなく、艦もズタボロで、全員放心状態です。すると後ろに立っていた折田艦長が、「再起をはかろう」と声を掛けました。

それに対し古川さんが、強い口調でこう言いました。

「艦長、なんとかなりませんか。われわれはねえ、この前も帰ったんですよ。こんどもまた帰るなんて、いったいどのツラ下げて帰れるんだ」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:269,270)

当時折田艦長は海軍少佐、古川さんは上等兵曹。上下関係が非常に厳しい軍隊で、普段では考えられないような状況が起こり、横田さんは「思わず、ひゃっとした」そうです。

隊長である柿崎さんが咄嗟に古川さんをたしなめ、折田艦長に謝ります。その時の詳しい状況はぜひ「あゝ回天特攻隊」にてご確認ください。

そして折田艦長が去った後、柿崎さんは隊の5人に、諦めたような言い方でこう告げました。

「みんな、いいか。おれを中心にして、行動をともにする約束だったぞ。呉に帰れば、一週間で修理ができると艦長がいっていた。すぐまた出られるのだぞ。古川、わかったな。今回は黙って帰ろう。」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:272)

  

横田さんの手記、折田さんの証言、この二つの時系列を考えると、横田さんの手記のお話→折田さんの証言の順番で出来事が起こったのだと思います。

改めて状況を整理すると…

31日早朝に内之浦に停泊、日中に柿崎隊全員が状況を目の当たりにし、古川さんは気持が抑えられず艦長に物申してしまいます。柿崎さんは隊長として古川さんを制止し、艦長に謝り、隊員を励ましました。

夕方、柿崎さんは一人回天のそばで腰を下ろし頭を抱えて泣いていました。そこに現れた艦長に対し、自分の胸の内を明かし、自分の状況を嘆きます。艦長は柿崎さんの言葉を受け止め、彼を励ましました。

 

隊長としての役割をしっかりと果たし、隊員をまとめあげ、士気を下げぬよう配慮をされていた柿崎さん。しかし心は古川さん同様、爆発寸前でした。

 柿崎さんの詳しいお話は柿崎実中尉のまとめを読んでいただきたいのですが、彼は多々良隊の前にすでに2度出撃し、帰投しています。

回天搭乗員が出撃する際は、出撃数日前〜前日に壮行会が開かれ、偉い人や他の隊員と別れの盃を交わし、最後の大騒ぎをします。当日も短刀授与式が行われ、戦友たちに「頼んだぞ!」と見送られながら「征きます!」と叫んで出撃します。この時搭乗員たちは、これでもう日本の土を踏む事は、日本の美しい風景を見る事は2度とないと、任務を果たさねばと、覚悟を決めた事でしょう。

柿崎さん、前田さん、山口さん、古川さんは多々良隊時点でこれを3度行いました。

この事について改めて考えると、古川さんや柿崎さんが仰った言葉の重みを感じられると思います。

 

もう一つの柿崎さんの涙に関する証言は、金剛隊で出撃し、突入中止となり帰投した際の事。

小灘さんの著書「特攻回天戦」にその記述があります。

戦後、小灘はある級友から、柿崎実のことを聞いた。

彼は「金剛隊」の長い航海ののち呉軍港の宿で、居合わせたその級友と飲んだのだが、そのとき彼はひとり声もなく泣いていた、というのである。

(小灘利春,片岡紀明.(2006).『特攻回天戦:回天特攻隊隊長の回想』.光人社.頁:115)

 小灘さんは、柿崎さんと一緒に回天隊へ配属された兵学校同期です。柿崎さんは基地に帰ってきた後も、表情を変えることなくいつも通りにふるまっていたため、柿崎さんの苦悩に気づくことはありませんでした。戦後に級友の方からこのお話を聞いて、愕然とされたそうです。

 

 

日本人として、軍人として、兵学校出身として、回天特攻隊として、搭乗員として、隊長として…あらゆる責務と、出撃帰投を繰り返す状況。柿崎さんの人生には、抱えるにも大きすぎるものが、あまりにも多くのしかかりすぎていました。しかしそれを、その事への苦悩を、周りに気づかれることもなく、普段通りに振る舞えた、その精神の強さ。それは彼の涙が裏付けていると感じました。

彼の人生は、彼だからこそ全うする事が出来たのだと、深く頷けます。

コロナで心が不安定な日々を送っているあなたへ

↓動画の概要欄より↓

新型コロナウイルスによって、 日々の生活の中で不安や怒り、ネガティヴな感情を抱いている方へ。

回天搭乗員の方々について調べている私が「今できること」は、 このように彼らの言葉を紹介することくらいしかありませんが、 一人でも多くの方に彼らの言葉が届き、 「メッセージ」を受け取ってくださることを願います。

私たちは、 必ずやってくる「桜花爛漫の春」を、 「晴天の日」をしっかりと見つめ、 自らの信念を胸に、前に進んでいく。

恐れや不安さえも包み込む大きな愛の信念を、あなたが既に持っていることに気づいてください。

 

「私が今できること」を考えて、動画を作成しました。

内容的には前回アップした記事とほとんど同じ方々の言葉のご紹介ですが、一部違うところとして、柿崎さんの言葉を「幸福とは…」に変更(記事でご紹介した言葉は長かったので…)、松尾さんの言葉を追加したというところがあります。

音楽以外は全てiPhoneで作成したのでシンプルな動画になりましたが、ご覧いただけると嬉しいです。

 

そして今日4月10日は仁科関夫さんのお誕生日!

以前にもご紹介した、14歳のお誕生日を迎えられた仁科さんの日記の言葉をここに引用します。

今日は僕の誕生日だ。ぼくもこれで満十四歳になったのだ。実に十四年一日の如く、光陰矢の如し。もう十四年の月日は流れたのだ。うかうかしてはおられぬ。やがて年をとるだろう。しっかり励もう

※現代仮名遣いに直しています

(前田 昌宏.(1989).『回天菊水隊の四人―海軍中尉仁科関夫の生涯』.光人社.頁:142)

今こそ読みたい回天搭乗員の言葉

皆さん、お元気ですか。

私はもともと引きこもりなので、普段と何ら変わらぬ生活の中、とても元気にあつ森をやりこみながら過ごしております。笑

世界が変化の時を迎え、日々様々なことが起こり、そして様々な情報が飛び交い、心が不安定になりがちですが、私がここ最近、特に繰り返し読んでいる回天隊の方々の言葉をいくつかご紹介します。

 

 

上別府宜紀大尉

"冬来りなば春遠からじ"、厳寒の冬を過ごして桜花爛漫の春が来ると同様、あらゆる苦境を忍び、一途に光明の彼岸に邁進するところに我々日本人の生き甲斐があり、生命があるのだと思います。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:171)

 

本井文哉少尉

ある南洋の島の土人は、雨降りの日を喜ぶそうだ。

それは、その後には必ず晴天の日が来るから……。

それは何日後に来るかも知れない。しかし必ず来る。

よく堪えて、頑張ってくれ。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:180)

 

和田稔少尉

どんな風が吹こうと、ぬかるみがつづこうと、しっかりと歩調をとって、まん前を向いて、地をふみしめ進んで行こう。

時代、時代で空飛ぶ向きの異なるような軽薄な木の葉は相手にしないで行こう。

(和田稔.(1995).『わだつみのこえ消えることなく:回天特攻隊員の手記』.角川文庫.頁:93)

 

久家稔少尉

蓮の花は泥沼のなかにありながらあのような清らかな花を咲かせる。

いかに汚穢に充ちた世界にあっても、信念を堅く持っておれば、それには染まらず、生きて行けるものである。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:239)

 

黒木博司大尉

自分の中を流れる天の命、此れを知り此れを伸ばし此れを明らめ此れに依って生き死なんこそ私達の最も大切なことであります。

(吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:119)

 

柿崎実中尉

死生観とは、死を考えるから起きる考えだよ。考えなければこんな事は問題ではない。

人間は日常茶飯事とおなじ自然の一現象にすぎない。

死をどうしてそれだけ大きな問題に考えるのか。之も慾の為めだ。即ち愛の欠乏した人間の考える事だ。

臣として君の愛を感じ、子として親の愛を感じ、人としては神の愛を感じ、妻としては夫の愛を感ずる人にとっては、死ぬという事は考えられない事だ。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:222)

 

 

どうか皆さん、こんな中ですが、否、こんな中だからこそ、自分の心を、自分の信念を大切にしてあげてください。そして「愛」を思い出してください。

自分を愛してくれている存在がいること、自分が愛している存在がいることを、どうか思い出してください。

自分の心に不安や恐れ、怒りがあるなあと感じる方。

そのようなネガティブな感情にズルズルと引きずり込まれている状況から、脱することのできる方法です。

「晴れの日」も「桜花爛漫の春」も、必ずやってきます。

外的要因に流されず、自分の信念と愛を忘れずに、これからも自分の人生を生きていきましょう。

周南きさらぎ文化祭の事後報告

久しぶりの投稿です。ずっと放置しててすみません…。

ブログでは後からのご報告で申し訳ないですが(ツイッターでのみ告知してました)、2月22日に、周南市徳山駅前図書館にて行われた周南きさらぎ文化祭の回天顕彰会さんのブースにて、私の文章を展示していただきました。

このような貴重な機会にお声がけいただけて、顕彰会さんには本当に感謝あるのみです!

顕彰会さんよりいただいたお写真で、展示の様子をご紹介します。↓

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顔写真の存在感に、自分の顔ながらわろてまいそうになりましたが…←

丁寧に、そして大きく展示していただいて感激です(;∀;)

素人の拙い文章ではありますが、会場に訪れた方に、少しでも回天に関する事について伝えることができていたらいいな、と思ってます。

 

展示していただいた文章は、以前ブログに書いた「人間魚雷(回天)を考えた若者たち」の文章がおかしいところやいらないところを書き直して、少し読みやすくしたものです。

内容に関しては以前と変わらないものではありますが、改訂版として新たな記事をアップしたので、また読んでいただけると嬉しいです。

tnavy.hatenablog.com

人間魚雷(回天)を考えた若者たち・改

 

もくじ

 

 

はじめに

 日本に特攻兵器として初めて誕生した、回天。

 後に回天という名前となる人間魚雷を発案したのは、海軍機関学校出身の黒木博司さん、そして海軍兵学校出身の仁科関夫さんだという話はとても有名です。しかし人間魚雷というものを考えていた人は、実はこの2人だけではありません。さまざまな場所で当時の戦争に直面していた若者たちが、人間魚雷、体当たり兵器の採用を訴えていました。その中で、実現までこぎつけたのが黒木博司さん、仁科関夫さんでした。

 現段階で私が知っている人間魚雷を考案した方々は、後述する10名です。この資料では、10名の方々が「いつ頃」、「どのような流れで」人間魚雷を考えたのかを、書籍をもとに簡単にまとめました。

(※和田稔さんに関しては、ドイツの人間魚雷に関して述べているという説もあるので、こちらには記載しておりません)

引用・参考文献は、各項目の最後にカッコ書きで番号を振っておりますので、「引用・参考文献一覧」の該当する番号よりご確認ください。

なお、この文章は筆者のブログ「紫紺の空の一つ星」に掲載している「人間魚雷(回天)を考えた若者たち」という記事の内容を一部編集・修正したものです。

 

 

 

人間魚雷を考えた若者たち

 ◆竹間忠三さん

 呂106潜の水雷長だった竹間さんが人間魚雷の構想の意見書を上層部に提出したのは昭和18年の初め、26歳の時。

意見は却下されましたが、竹間さんがこの意見書を提出した理由について、

「これは特修科学生中の同僚の体験談と、第七潜水戦隊司令部勤務中の第一線潜水艦の運用状況から、将来の潜水艦戦の様相を汲みとり、対策の早期確立の必要を感じたからであろう」

と、同期の菅昌徹昭さんは仰っています。[1]

 

 

◆沢崎正恵さん

 支那事変に従軍されていたご経歴があるので、今回ご紹介する方々の中では最年長だと思われます。

昭和18年6月、「絶対に敵の空母を沈めることのできる兵器を開発して、起死回生をはからねばならない」との思いで人間魚雷の設計を開始。翌年1月に完成し、その翌月に、自分が乗るつもりで海軍軍令部へ嘆願書を持ち込みました。

 嘆願書は採用されませんでしたが、沢崎さんは後に新聞で回天の存在を知り「私の考案した兵器に乗って死んでいった若者がいる―と複雑な気持でした」と語っています。[2]

 

◆近江誠さん

 昭和18年、伊165潜はインド洋で敵駆逐艦にズタズタに攻撃されます。その航海長だった近江さんは、「一人が相手を道ずれにして死に、味方の九十九人が助かる方法はないか」と考えた結果、人間魚雷の構想にいきつきます。同年末~昭和19年初め頃、自分が乗るつもりで血書嘆願を上層部に提出しました。

 近江さんの生年月日は不明なのですが、海軍兵学校70期なので当時20代前半だと思われます。後に回天基地へ赴任されました。[3]

 

◆橋口寛さん

 昭和19年巡洋艦「摩耶」に乗っていた橋口さんは、人間魚雷兵器を血書嘆願しています。当時19歳か20歳あたり。

 その後、回天基地への転任の辞令が出されます。[4]

※橋口さんに関する詳細は調査中です

 

◆三谷与司夫さん

 昭和19年10月、駆逐艦「桐」の水雷長だった三谷さんは、守るべき空母4隻を失った捷一号作戦からの帰投中に、「この優秀な魚雷を敵艦に当てるには人間が乗っていくしかない」と考え、絵を描いた志願書を艦長に提出しました。当時21歳。

 帰投後、回天基地へ転任されました。[5]

 

◆深佐安三さん・久良知滋さん・久戸義郎さん

 彼らの考えていたものこそが、後に「回天」と呼ばれる人間魚雷の原点です。

 昭和18年12月、当時20代前半の3人の青年士官が、使われていない93式魚雷の活用方法と戦闘方法について毎晩考え、話し合っていたのが始まりです。翌月、同じP基地(特殊潜航艇の基地)にいた設計に詳しい機関科の黒木さん(後述)と、3人と同期の仁科さん(後述)も加わり、5人で回天の実現化に励むことに。

 やっとの思いで設計図を完成させ、5人でP基地の司令へ提出しますが、処分されてしまったので、今度は海軍関係のあらゆる場所に、司令に内緒で送りました。

 その年の2月、上層部が人間魚雷の構想に関して興味を示したため、さっそく試作の話が持ち上がりました。が、これからという時に、3人は辞令により回天に携わることができなくなり、回天の実現はその後黒木さんと仁科さんが行っていきました。

 回天の原点をつくりだした3人ですが、回天搭乗員にはなれませんでした。[6]

 

◆黒木博司さん・仁科関夫さん

 人間魚雷のことではないものの、黒木さんが特攻兵器に関して血書嘆願を上層部に提出したのは昭和18年3月、21歳の時。その後人間魚雷の構想もねり始め、10月には同期たちに人間魚雷の血書嘆願に署名血判をお願いしています。

 12月、2ヶ月前にP基地に赴任してきた仁科さんと同部屋になり、思想等が似通っていた2人は、すぐに意気投合。仁科さんは兵科の知識で人間魚雷の構想を助けました。

 同年末に二人で海軍省へ図面を持っていき、その当時考えていた人間魚雷の採用を直接訴えました。

 翌年の1月から試作までの話は前述したので省略します。

 上層部は脱出装置をつけることにこだわりましたが、彼らの脱出装置不要との申し入れによりこれを取りやめ、7月にようやく完成。走航テストが黒木さん・仁科さんの操縦で行われ、見事成功し、その後正式採用されました。その当時黒木さんは22歳、仁科さんは21歳です。[7]

 

 

彼らの人間魚雷考案に私が思うこと

 当時を実際に生きたことがない私たちから見るとなかなか理解しづらい、というか、ほぼ理解は不可能なことだと思いますが、別々の場所や所属にいたにも関わらず、10名が10名、同じ「人間魚雷」というものに固執したのは、当時の状況下で、そこに何か見出せるものがあったからなのではないかと、私は思っています。

 また、彼らは今でいうとてもエリートな方々。頭がものすごくいい人たちばかりです。そして生前のエピソードや家族宛の手紙を調べると、とても家族思い、友人思いな方々です。私は、そんな彼らだからこそ人間魚雷を考えたのだと思っています。

 軍人として戦争の前線にたち、愛すべき家族や生まれ育った祖国を思い、同胞を思い、軍人である自分たちの立場から、さまざまなことを思い、苦悩し、必死に考えていたと思います。そんな中から生まれたのが人間魚雷の発想だったのではないかな、と。

 表面的に見ると、彼らは「特攻兵器に拘った」ということになりますが、決して「必死」をゴールにしていたのではないでしょう。必死はあくまでも過程であり、ゴールではないと思います。

 彼らにはその先に、自分たちにとって最も大事なものが見えていたのではないでしょうか。そして、その大事なものを守るために、その当時最善で効率的な兵器、それが人間魚雷だったのではないか、と私は考えています。

 

最後に、八丈島の基地回天隊隊長だった小灘利春さんのインタビューの内容の一部をここに引用します。

「私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っているんですね。一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。戦後の新聞はやれ、愚かな戦争とか愚かな特攻隊員などと書きたがりますが、回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか」[8]

 

 

引用・参考文献一覧

 [1] 第六十五期回想録編集委員会.(1985).『第六十五期回想録』. 海軍兵学校第六十五期会.頁:582

[2] 恩田重宝.(1988).『特攻』.講談社.頁:304〜307

[3] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:97~99

[4] 小灘利春・片岡紀明.(2006).『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』.光人社.頁:25

[5] 西尾邦彦.(1995).『関西ネイヴィクラブ講演録(平成7年5月23日)』. 関西ネイヴィクラブ事務局.頁:190

[6] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:23~25,118~121

[7] 吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:282~284,305~306

上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:100~103,106~108,130,131

[8] 『特攻 最後の証言』制作委員会.(2013).『特攻 最後の証言』.文藝春秋.頁:100

令和元年度回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式に参列してきた

11月10日、今年も気持ち良く晴れてくれました。

さっそく高速船に乗って大津島へ。

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着いたらすぐに見えたのは…

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11月3日に完成したばかりの大津島回天神社!

旭日旗、日の丸、そして菊水の旗が掲げられており、既に胸がいっぱいに。

皆さん真っ先に神社へお参りされていました。

私もその列に並び、しっかり手を合わせてきました。

彼らと向き合える場所がまた一つ増えて、とても感激しています。

 

とりあえずお供え物を…と思い、坂をのぼり追悼式の受付へ。

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今年は旦那さんに頼らず、145羽を1人で折ることができました…!笑

私の尊敬する方お一人お一人に感謝の気持ちを伝える方法が、このような形でしかできずに申し訳ないですが、年に一度、お一人お一人の石碑と向き合い、折鶴をお供えできる事にとても感謝しています。

お供えをしていると、ご遺族の方に「すごいねえ、みんな嬉しいだろうねえ」と声をかけて頂き、泣きそうになりました…

そして今年は、全員の石碑にお花がお供えされていて、関係ないのに私が嬉しくなっちゃいました…

プラスして柿崎隊の4人にはお酒とお菓子(山口さんはおつまみ笑)、黒木さんには好物の栗、仁科さんにはお菓子のお供えをしました。

 

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式が始まるまでの時間、普段ツイッターでお世話になっている研究者の方や漫画家さんにお会いできて、さらには奥本剛さんもお見かけすることができてとても嬉しかったです☺️✨

 

そして驚きなことに、回天顕彰会さんのご厚意により、マイケル・メアご夫妻にご挨拶させていただくことがでしました。

マイケル・メアさんは、回天の攻撃により沈没したミシシネワの生存者であるジョン・メアさんの息子さんです。そして回天の研究者でもあります。

米国より関係者のご家族が初めて参列される記念すべき日に立ち会えただけでもとても光栄なことなのに、まさか直接お話ができるとは思ってもいませんでした。

このような機会を与えて下さった回天顕彰会さんには感謝してもしきれません。

 

お話しさせて頂いている中で、マイケルさんは「史料を探すことに時間をかけすぎないでくれ」と仰られました。

それはマイケルさん自身、アメリカの極秘史料含めさまざまな史料を、膨大な時間をかけて収集・照らし合わせを行った故の、重みのあるお言葉でした。

私たちがインターネットや書籍を読むだけで知れることは、研究者の方々が時間と労力をかけて一生懸命調べてくださった結晶そのものです。如何に自分が恵まれた環境にいるのかが、改めて実感できました。

本来であればものすごい時間がかかることを、私たちは研究者の方々のおかげですぐに知ることができます。であれば、その分の時間を何に使うか、「これから」を担う私たちにとって重要なのはそこなのです。

私の夢は、回天の搭乗員の方々の言葉や生き様、思想を中高生や大学生、そして子どもたちに伝えることです。私は時間を、「伝えること」に使っていきたいと強く思いました。

また、現在もまだ発見されてない当時の史料が多くあることも、そのために研究者の方々が日々調査されていることも事実です。

そのような方々の行動は、未来の研究者含め人類にとって大変有難く、また大変重要なものとなるのだな、と感じました。

 

そして、マイケルさんは「若い世代に受け継いでいってほしい」という言葉も、何度も仰られていました。

それは、後述する追悼式でのマイケルさんの御挨拶でのお話に深く関係するお言葉でした。

私たちが今後受け継いでいくためには、少しでも多くの方に知ってもらい、興味を持ってもらうことが大切だと思います。

マイケルさんが今回、私含め追悼式に来られていた方一人一人にバトンを渡してくださったように、私も今後精進し、多くの、というかそれはもう大量のバトンをばら撒いていきたいと思いました。

 

英語ができない私は、顕彰会さんに通訳をお願いしてお話させて頂いたのですが、今日ほど英語ができないことを悔やんだ日はありません…。ちゃんと勉強しよう…。

 

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定刻の11時30分に、式はスタートしました。

式が始まると同時に太陽が雲に隠れ、直射を浴びることなく過ごせていましたが、献花が始まると再びパアアっと晴れて、とても不思議でした…

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追悼飛行のT5。

いつも不意打ちでいらっしゃり、わーカメラカメラ!ってやってるうちに行ってしまわれるのですが、今年はちゃんと撮れた…!笑

 

平和の島スピーチコンテストの代表の女の子のスピーチが、本当に素晴らしかったです。

ノーベル平和賞の受賞時、インタビューで「世界平和のためになにをしたらいいか?」という質問を受けたマザーテレサの、「家に帰って、家族を大切にしてあげて下さい」という言葉を中心とした内容のスピーチでした。

このマザーテレサの言葉を聞いた当初、彼女は、

「家族を大切にすることは当たり前なのだから、それより、世界の苦しんでいる人々のために行動しなければならないのではないか」

と思ったそうです。

これはほとんどの人に当てはまることではないでしょうか。世界平和を考えた際に、今苦しんでいる人を助けなければ、と思う心は、誰でもあると思います。

しかし彼女はそう感じたとともに、自分が本当に家族を大切にできているかどうか考え、家族に申し訳なくなったそうです。

目の前の人を大切にし、意識的に感謝をすることが、平和につながる。

なぜなら何事も行動するということは、家族がいるからできることであり、それは世界平和のための行動も例外ではないからです。

彼女が説いてくれたのは世界平和を考える際に最も重要な、根本のお話でした。

とても心が震えるスピーチで、聞き終わるときには、「ああ、これもう、全人類もれなく聞いてくれえ…;;」と思いました…。

 

そしてマイケル・メアさんの御挨拶。

式の前日にご遺族とご交流があったそうで、「ご遺族の方それぞれが亡くなった方への思いを強く持っていらっしゃり、それを今に伝えていこうという思いを強く感じました。それは、私やミシシネワの遺族にとっても同じ思いです」と語っていました。

また、一つのエピソードとして、仁科関夫さんのご遺体が上がった時に、マーシャル・ドークさんがそのご遺体に祈りをささげたということもお話されていました。このお話は、マイケルさんの著書「回天」に載っています。

そして、「大切なのは若い世代こそ回天搭乗員のお話を語り継いでいく人々だということ」とのお言葉が。

マイケルさんは、2005年に亡くなれたお父様と、若い世代に語り継ぐことを、死の床で約束されました。今日はその機会となったと仰られていました。そしてお話は続きます。

「父は『私たちは国の為に尽くしたのであって、それを忘れてほしくない。同様に、回天搭乗員も国の為に尽くしたのだから忘れてはならない』と、強く語ったことを今も覚えております。」

当事者であるジョンさんが、当時敵であった国の軍人にもこのような思いを持たれ、それを語り継いでほしいと息子さんに仰られたことに、私は強く胸を打たれたと同時に、自分の視野の狭さを反省しました。

現実、私たちは戦争の話をしたり、学ぶ際は、当時のアメリカの話を聞くことはほぼなく、日本の話が中心だと思います。きっとどこの国も自国の話が中心でしょう。それは当たり前のことです。

しかし自国についてしっかりと知った上で、お互いが当時のお互いについて知り、「みんな国が違うだけで心の向かう先は同じだったのだ」と気付くことが、どれだけ大切なことだろう、と思いました。

マイケルさんの本は、その大切なことを伝えてくれる本だと思います。

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式が終わった後、またもやミラクルが…

顕彰会さんが「クラファンのお礼だよ!」とマイケルさんご夫妻のサイン入りの「回天」の本をくださった上に、マイケルさんご夫妻と一緒にお昼ご飯まで食べさせていただくことになり、緊張マックスでふれあいセンターへ。笑

通訳さんに通訳をしていただき少しお話しして、その後はマイケルさんは新聞の取材を受けられてました。ダンボのように聞き耳を立てながらご飯を食べていると、

ナンシーさん(奥様)に「こっちに座ったほうがインタビュー内容よく聞こえるよ!」的なこと(ニュアンス)を言っていただき、お席を交換してくださいました…優しすぎる!!

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食べ終わって移動する直前、マイケルさんが「帽子あげる!」とミシシネワの帽子をプレゼントしてくださって私大パニック!!

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更にアロマオイルの小瓶のようなものもくださり、「?」という顔をしていると、「ミシシネワから漏れ出た海軍特別燃料だよ!地元の人の生活に影響するから回収されたんだ」と言われて更にパニック!!

こんな貴重なものを頂いたのにパニックで逆に固まってしまって本当に申し訳なかったです…。

このことを友人Kさんに報告すると、海軍特別燃料について「仁科さんが流させたミシシネワの血と同じやん…」と仰られていて、まさにその通りだと深く頷きました。

その小瓶の中には、75年前の、ミシシネワ、そして仁科さん(回天隊)、両国の思いが詰まっていると感じました。

75年の時を経て、両国が現在このように交流し、繋がっていることは、当時の彼らにも伝わっていることと思います。

マイケルさんがくださった物は、私にとって一生の宝物となりました。

 

さて、ご飯も終わり、マイケルさん達と別れ、フェリーまでまだ少し時間があったので、私は一人魚雷発射場跡へ。

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ここに来ないと、家には帰れない。

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参列者の方々もだいぶお帰りになられていた時間なので、誰もいないトンネルを久々に歩き、じっくりと当時に思いを馳せることができました。

 

フェリーが島に到着し、徳山へ。

徳山に着きフェリーを出ると、マイケルさんとばったり再会。

「今日はありがとう、会えてよかったよ。初めて日本に来たけど、みんな素晴らしい人だ。これからも頑張ってね!」

通訳さんが近くにいなかったので、私にもわかるように、優しい英語でこのように声をかけてくださいました。

今はただただ、イエス!サンキュー!ナイストゥミーチュー!しか言えなかった自分を恥じています…(ボキャ貧どころじゃない騒ぎ)

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今回の追悼式は、私にとって特別なものとなりました。

回天顕彰会さん、マイケル・メアさんご夫妻、お会いしたすべての方々に感謝です。

一人で行くことを怖がらず参列して、本当によかった;;

追悼式で、塚本太郎さんの弟さんである塚本悠策さんが「新しい時代が来ているなという感じがする」と仰られていましたが、私もその事を強く感じました。

いい方向へ変わり行く時代。そして当時のことを変わらずに語り継いでいくこと。

これからを歩む私たちに託されたものを、しっかりと理解し、そのための行動を怠らぬよう、日々精進していきたいです。

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書きたいことが多すぎて、まとまりがない上にとても長くなってしまいましたが、ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!

11月9日、1年ぶりの徳山

今回で3度目となる回天追悼式への参列。

今回は初めて案内の手紙を頂き、一般参加としてお席、お弁当を用意して頂きました😭✨

案内の手紙が届いた時は、驚きと嬉しさでパニックになりました…笑

今年は旦那さんは多忙、母も当日に予定ありで、初めての一人参列でした。

 

スーパーHSPの小心者なので、誰かと一緒じゃないと怖いよお…;;と半べそ状態でしたが、1人で行動することも試練だと思い、勇気を出していざ徳山へ!笑

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わーい、1年ぶりだ!!

またこの地を踏めるなんてなんて自分は幸福なんだ…と早速幸せを噛み締めました。笑

 

ホテルに荷物を置いたら、我慢できずに早速港へ。

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やっぱり、回天模型があったところはもう跡形もなくなってました…😭アアア

整備が終わったらまた戻ってきてくれることを願います!

 

ちなみに、徳山駅の図書館側の広場には噴水が出来てました。

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え、超インスタ映えじゃん…!

暗くなるとライトアップされるので、JKたちが写真撮ってました。

そして駅周辺、去年よりも明らかに若い子が増えてる、というか、若い子しかいない!笑

いたるところに高校生や大学生が溢れてて、めちゃくちゃ活気のある街になってて感動しました。すごいよ周南…!

 

晩御飯は、去年訪れてその美味しさに大興奮した「カフェクラブ ミル」さんで頂きました。

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このドイツパンがほんとにほんとに美味しいんですっっ😭😭

また食べられてよかったなあ😭😭

 

ホテルに帰る前に、先に駅でお土産を購入。

私的山口のお土産代表はこれ。

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松陰餅。笑

帰ったら、旦那さんに「でたよ…」と言われました。←

みんな大好き松陰先生だし、めちゃ美味しいし、一石二鳥だね!(?)

 

そしてずっと気になってた大津島のすだいだいビールが、なんと駅の蔦屋書店に置かれてました!

瓶ものなので配送できないか伺ったところ、5000円以上買わないと対応できないらしく…。

流石にすだいだいビール5000円分は消費しきれないので、悩んだ挙句1本だけ買って帰ることに。笑

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光の反射の加減のためにトースターの横とかいう変な場所での写真ですみません。笑

割れずに持って帰ることができてよかったー!( ;∀;)

まだ飲んでないので、お味のレビューはまた今度…♡

 

そしてコンビニでお供え物と自分の飲み物を買い込んで両手一杯の荷物でホテルへ戻りました。

手がちぎれるかと思った!!!!←

 

ホテルでは旦那さんと電話しながら、心ゆくまで旅のお供であるザメディアジョンの回天本を眺め、枕元に置いて就寝。

あり得ないほどぐっすり寝れました。自分でもびっくり。

1人でホテル泊まるの怖いよお;;とか言ってた自分が嘘のようだ!!

 

さて、前置きが長くなってしまいましたが、次の記事ではようやく追悼式当日について書いていきます!