紫紺の空の一つ星

趣味まるだしのブログ。日常、美容、帝国海軍、回天特攻隊が中心。ご来訪頂き感謝致します。

8月3日の靖国参り

8月3日は私の尊敬している柿崎実少佐のお誕生日でした。

去年はお参りに行けなかったので、一昨年ぶりのお誕生日参り。

 

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第二鳥居の前でネコチャン発見。

人間を全く気にせず寝てらっしゃって可愛かった笑

神社で動物見かけるのは縁起がいいことなのでお参り前から気持ちも晴れ晴れ…ネコチャンありがとう…

 

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陽も傾き始めた時間帯の参拝でした。

私、夏の夕方って好きなんです。直射も落ち着いてきて体が楽になるのもあるけれど、あたたかい色合いの光と涼しげな影がとてもいいバランスで、落ち着きと儚さを感じます。

今日1日が終わりに向かうことを惜しめるような、それゆえに明日が尊くなるような、そんな気持ちになるのです。


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朝顔が大量に置いてあってなんだか違う場所に来たような感覚でした。

緑倍増で気持ちよかった☺️✌️


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御朱印もしっかり頂きました。

令和元年って、やっぱりなんかちょっと特別な気持ちになります。令和も変わらず柿崎さんの背中を追いかけていきたいな。

 

柿崎さん、お誕生日おめでとうございます。

柿崎さんの魅力はたっくさんあるのですが、その中の一つは、人によって様々な印象があるところ。

家族、同期、上司、部下、そしてお重さん、みんなの証言の中で柿崎さんはいろんなお顔を見せてくれるのです。

一つの言葉では決して彼を語ることができない、というところに彼の人となりの奥深さを感じて、彼の遺した言葉の意味を知るためにも、彼のことをもっと知りたい、という気持ちになります。

そのためには様々な勉強を頑張らねば…です!

回天記念館50周年記念誌「回天記念館と人間魚雷「回天」」

去年の11月に50周年を迎えた回天記念館。

今年の4月にその記念誌として、回天、そして回天記念館に関する専門書が発売されました。

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見た目は圧倒的教科書感!

文庫本と比べるとだいぶ大きい!(近くにいらっしゃった和田さんにご協力頂きました笑)

中身も全部カラーだし、文字がびっしり、そしてサイズ感的にもどこか授業を受けてた時の懐かしさを感じます。

それはそのはず、中高生の学習にも役立てることができれば、と図書館や学校にも配布されているのです。

 

内容は、回天記念館創立に関すること、そして回天部隊の大きな流れや攻撃法、年表など、入門的資料としてとても役立つものとなっています。

言葉があまり難しくならないように選ばれている印象を受け、図解もわかりやすく、そして跡地や当時の写真が満載で、回天部隊をとても理解しやすい本だと思います。

 

そして私が何よりこの本で推して参りたいポイントなのですが、大津島に残る遺構が詳しく載っていて、大津島で持ち歩きながら散策したい本ナンバーワンです!デカさとか関係ありません!!←

他にも光、平生、大神各基地の当時の隊の地図や訓練コースなども載っているので、旅のお供の一冊に加えたい本となりました。

 

記念館で販売されているとのことですが、記念館か、連絡窓口である文化スポーツ課への連絡で、通販も可能となっているようです。

(私は文化スポーツ課へメールを送り購入しました)

連絡先等は周南市回天記念館 - 山口県周南市へ!

私が歴史に対して勘違いしていたこと

※注意※

思ったことをそのまま心の整理としてつらつらと書き綴っているので、間違っていたり、文章がおかしかったり、読みづらかったり理解不能な部分があるかと思いますが、ご了承ください、、。笑

 

 

私はずっと、歴史を調べれば、絶対的な(この時点で、世の中絶対なんてものはないよっていうツッコミは我慢してください…話が終わってしまいます…←)事実を知れると思っていました。

この時代(大東亜戦争)に興味を持ったのも、「本当はどうだったのだろう?」という、事実を知りたい気持ちからでした。

 

しかし、調べていくうちに、一つであろう「事実」を知ることはできないということに気づきました。

資料に書いてあるからそれが100%あったとは言い切れないし、逆に書いてないからそれが100%なかったとも言い切れない。

実際にこの目で現場を確認できないので、可能性的な話はできても、絶対は言い切れません。過去が過去である以上、確実なものは掴めないのです。

 

例えば、私が友人にポロっと言った一言も、私またはその友人が形に残るもので記録しない限り未来には残せないので、未来人からすれば私の一言は「なかった」ことになってしまう。実際は「あった」のに。

この話の逆も然り。(言ってもない事を書かれて言ったことにされている、とか)

そして私がいなくなった未来にいる未来人は、過去に行ってその現場を確認することができないので事実はわかりません。

…例えがクソみたいですみません。笑

 

そんなこんなで、だからこそ書物や記録などから解釈し、歴史を定めるのだな、と分かりました。

これが所謂世の中での「歴史的事実」であり、そしてそれは私の思っている「100%の事実」とは違うものでした。

 

そもそも、今私たちが生きているこの時間だって、1分1秒過ぎれば過去のものになります。

さっきテーブルに出してたコップも、出てた時は出てた事が事実でも、しまってしまえば、記録をしたり写真を撮ったりしていなければ事実としての証明ができないことになるから…ここまで考えて脳みその運動が止まりました。笑

 

話はそれましたが、この話題は

「事実とは言えないものなら、もう何も信じない!」

とかいう話にしたいのではなく…笑

 

歴史的事実は、歴史を決める偉い人たちがどう解釈し、どう定めるかによって、(もちろん、事実に一番近いであろう事が)残ったり変わったりしていくものだと、私は理解しました。

であれば、先人たちが残してきた、そして歴史研究家の方々が見つけ出した様々な情報を、自分はどう解釈し、何を信じるか。そしてそれを自分に、現代に、どう活かすか。

何を歴史に残したいか。

何を後世に伝えていきたいか。

私が歴史を調べ、知る、本当の理由はここにあるな、と思いました。

 

私は回天隊を歴史に残したい。

彼らの生き様を、言葉を、思想を残したい。

これからも調べ、学び、発信していこうと思います。

「18歳の回天特攻隊員の遺書」に今思うこと

tnavy.hatenablog.com

1年以上前に謎を深めて終わった(←)こちらの記事が結構読んで貰えているようなので、今私がこの話について思っていることを書こうと思います。

 

結論から言いますと、「18歳の回天特攻隊員の遺書」として広まっている遺書は、回天搭乗員の遺書ではない、というのが個人的見解です。

 

前回調べた内容からさらに追加で、岡村さんが書籍で言っていた南の島、「マーシャル諸島(書籍ではマーシャル群島と表記)」について調べてみました。

マーシャル諸島は、1944年の2月にアメリカ軍によって失陥し、当時その島々で戦っていた方達の一部は敵に囲まれたまま孤立した状態となり、終戦まで米軍からの爆撃や飢餓に苦しんだそうです。

潜水艦に関しても、失陥直後にマーシャル諸島への補給命令がでたものの、

「潜水艦輸送は昭和十九年六月までに、わずかにミレに二回、クサイに一回成功しただけで、六月中旬以降マーシャルに対する輸送は中止され、敵中にとり残された部隊は、生存非常に大きな苦難を味わうことになったのである。」

(「中部太平洋陸軍作戦第1(マリアナ玉砕まで)p.239)

とのことで、昭和19年12月時点で八雲へ着任された岡村さんがその後マーシャル諸島に向かうこと、そして島周辺に潜水艦が向かうことはあまりにも困難ではないか?と思いました。

 

ここまでくると、前回の記事で述べたような「様々なことに配慮して架空の設定を織り交ぜたり」という部分的な創作ではなく、完全創作、小説の域です。

お話されているすべてが記録にはない事柄なので、これは事実上回天特攻隊員のものである、とは言えません。

 

ただ、回天特攻隊の方のものではないとしても、遺書自体の存在は、私は否定しません。

理由としては、遺書自体が存在しない事が証明されていないからです。

私自身、遺書等の個人の物は、公然?の物品や事柄とは違うという認識なので、存在を確認、または有無を当事者に確認しない限りは断定できません。そして、無理にしなくていいものだとも思います。

 

ここからの話は私の想像…というか行間読みまくったオタクの妄想なんですが…

万が一遺書自体が存在せず、内容全てが岡村さんの作ったものだったとしても、その遺書を考えたのは岡村さん自身ということになります。

回天隊を熱望しても選ばれなかった事、多くの予備学生が戦死した中戦争を生き延びた事(現代の私達の目線から見れば幸運にも、ですが…)、岡村さんにのしかかっているものを考えると、岡村さんの当時抱いていた覚悟というか、気持ちのようなものが、垣間見れるような気がします。(妄想失礼しました)

 

改めて、この遺書は回天特攻隊の方のものだとは、私は思っていません。

現在進行形で、回天隊の話が出た際にこの遺書の話がとりあげられることは多々ありますが、もっと広がってほしいと私が思っている回天隊の方々の言葉は山ほどあります。

メディアによって急速に広まったこの話を見れば、声を大にしていかなきゃ広まらないということは十分に理解できます。

私はこれからも、その彼らの言葉を広めていく努力をしていこうと思っています。

 

令和最初の靖国参り、5月2日

今年の5月1日より、平成の時代が終わり令和の時代へと移り変わりました。

元号が変われど私たちの生活は何も変わりませんが、日本の歴史的な節目を目の当たりにできたということはとても光栄な事だと感じます。

回天隊の彼らが過ごした激動の時代である昭和から、元号が2つ変わりました。

平成に生まれ育った私ですが、とても幸せに生きてこれた事を感謝しています。そして令和の時代、国家、国民、そして世界までもが更に繁栄していくことを深く願っています。

 

さて、5月2日は私の尊敬している柿崎実中尉、古川七郎上曹、山口重雄一曹のご命日なので、毎年靖国参りをしています。

今年も、令和最初のお参りを兼ねて、靖国へ足を運びました。

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5月でも肌寒い日が多くて…この日も曇り空で、雨が少しポツポツしていました。

今年も柿崎さんが突撃された時刻に合わせて、拝殿にて合掌。

 

そのあとは御朱印をいただきました。
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令和元年の文字を見て、日本のつくる時代の流れの中に自分はいるのだな、とか当たり前のことを改めて考えてました。

日本は、日本として今日も時代を歩み続けていますよ。なんて、彼らに向かって心の中で呟いてみたり。

 

「鎮魂之賦 風ヨ雲ヨ」という、海兵72期の泉五郎さんが作詞された詩集があります。

その中の「海征カバ人間魚雷回天抄」より一部引用します。

「時ハ移ロイ人代ハリ

世ノ行ク末ハ知ラネドモ

変ワラヌモノハ唯誠

至高ノ愛ニ殉ジタル

純粹無垢ノソノ御霊

生マレ代リテ幸アレト

タゞ只管ニ祈ルナリ」

(「鎮魂之賦 風ヨ雲ヨ」p.16)

第40回特攻隊全戦没者慰霊祭

遅くなりましたが、忘れないうちに慰霊祭の簡単な記録を。

 

今年も特攻隊全戦没者慰霊祭に参列することができました。

今まで一人でしたが、今年は旦那さんがついてきてくれて嬉しかったです☺️

 

初めて車で靖国ってみたのですが、駐車場が靖国も周辺もどこもいっぱいで入れず…

とりあえず膀胱が限界だった私(←)は先に降ろしてもらったのですが、旦那さんは開始ギリギリまで駐車場探しに血眼に。笑

なんとか直前に間に合って一緒に参列できました!ありがとう旦那さん!

そして靖国は車で行ってはいけないことを学びました。笑

 

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今年も本殿にてご挨拶させていただくことができました。

改めての話ですが、靖国神社は私にとって本当に大切な場所だし、力をもらえる場所です。「彼ら」と時空を超えて対面しているような気持ちになるのです。

今年もそんな気持ちで、お祈りをしてきました。

 

さて、今年の靖国の桜です。
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ちょうど見頃で、お花見に来ている方もたくさんいました。

とっても綺麗だったな🌸
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屋台もたくさん並んでました!


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そうそう、慰霊祭でのお土産のお菓子、変わったんですよ!
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おまんじゅうから瓦せんべい的なやつに。

おまんじゅうも美味しくて大好きでしたが、おせんべいも美味しいです🤤

旦那さんがもらった分もあるから、2箱食べられて幸せだ!←

人間魚雷(回天)を考えた若者たち

日本に特攻兵器として初めて誕生した、回天。

後に回天という名前となる人間魚雷を発案したのは、海軍機関学校出身の黒木博司さん、そして海軍兵学校出身の仁科関夫さんだという話はとても有名です。

しかし人間魚雷というものを考えていた人は、実はこの2人だけではありません。

さまざまな場所で当時の戦争に直面していた若者たちが、人間魚雷、体当たり兵器の採用を訴えていました。

その中で、実現までこぎつけたのが黒木博司さん、仁科関夫さんでした。

 

今回は、自分の頭の整理として、人間魚雷を考えた人をここに挙げておきたいと思います。記述に誤りがあった場合、ご指摘頂けると幸いです。

また、記事に書いた方々以外で、人間魚雷を考えた方を知っている方がいましたら、ぜひ教えていただきたく思います。

(※和田稔さんに関しては、ドイツの人間魚雷に関して述べているという話もあるので、こちらには記述しておりません)

 

目次 

 

◆竹間忠三さん

兵学校65期。

呂106潜の水雷長だった竹間さんが人間魚雷の構想の意見書を上層部に提出したのは昭和18年の初め、26歳の時。

意見は却下されましたが、竹間さんがこの意見書を提出した理由について、

「これは特修科学生中の同僚の体験談と、第七潜水戦隊司令部勤務中の第一線潜水艦の運用状況から、将来の潜水艦戦の様相を汲みとり、対策の早期確立の必要を感じたからであろう」

と、同期の菅昌徹昭さんは仰られています。

(「第六十五期回想録」p582)

 

◆沢崎正恵さん

支那事変に従軍されていたご経歴があるので、今回ご紹介する方々の中では最年長だと思われます。

昭和18年6月、「絶対に敵の空母を沈めることのできる兵器を開発して、起死回生をはからねばならない」との思いで人間魚雷の設計を開始。

翌年1月に完成し、その翌月に、自分が乗るつもりで海軍軍令部へ嘆願書を持ち込みました。

嘆願書は採用されませんでしたが、沢崎さんは後に新聞で回天の存在を知り「私の考案した兵器に乗って死んでいった若者がいる——と複雑な気持でした——」と語っています。

(恩田重宝氏著「特攻」p304〜307)

 

◆近江誠さん

兵学校70期。

昭和18年、伊165潜はインド洋で敵駆逐艦にズタズタに攻撃されます。その航海長だった近江さんは、「一人が相手を道ずれにして死に、味方の九十九人が助かる方法はないか」と考えた結果、人間魚雷の構想にいきつきます。

同年末~昭和19年初め頃、自分が乗るつもりで血書嘆願を上層部に提出しました。

近江さんの生年月日は不明なのですが、70期なので当時20代前半だと思われます。

後に回天基地へ赴任されました。

(上原光晴氏著「「回天」に賭けた青春」p97~99)

 

◆橋口寛さん

兵学校72期。

昭和19年巡洋艦「摩耶」に乗っていた橋口さんは、人間魚雷兵器を血書嘆願しています。当時19歳か20歳あたり。

その後、回天基地への転任の辞令が出されます。

(小灘利春氏・片岡紀明氏著「特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想」p25)

橋口さんの資料不足で詳しいことはわからずです…(;;)

 

◆三谷与司夫さん

兵学校71期。

昭和19年10月、駆逐艦「桐」の水雷長だった三谷さんは、守るべき空母4隻を失った捷一号作戦からの帰投中に、「この優秀な魚雷を敵艦に当てるには人間が乗っていくしかない」と考え、絵を描いた志願書を艦長に提出しました。当時21歳。

帰投後、回天基地へ転任されました。

(「関西ネイヴィクラブ講演録(平成7年5月23日)」p190)

 

◆深佐安三さん・久良知滋さん・久戸義郎さん

三人とも兵学校71期。

彼らの考えていたものこそが、後に「回天」と呼ばれる人間魚雷の原点です。

昭和18年12月、当時20~22歳あたりの三人の青年士官が、使われていない93式魚雷の活用方法と戦闘方法について毎晩考え、話し合っていたのが始まりです。

翌月、同じ基地(特殊潜航艇の基地、P基地)にいた設計に詳しい機関科の黒木さん(後述)と、三人と同期の仁科さん(後述)も加わり、5人で回天の実現化に励むことに。

やっとの思いで設計図を完成させ、五人でP基地の司令へ提出しますが、処分されてしまったので、今度は海軍関係のあらゆる場所に、司令に内緒で送りました。

その年の2月、上層部が人間魚雷の構想に関して興味を示したため、さっそく試作の話が持ち上がりました。

が、これからという時に、三人は辞令により回天に携わることができなくなり、回天の実現はその後黒木さんと仁科さんが行っていきました。

回天の原点をつくりだした三人ですが、回天搭乗員にはなれませんでした。

(上原光晴氏著「「回天」に賭けた青春」p23~25,118~121)

 

◆黒木博司さん・仁科関夫さん

黒木さんは機関学校51期、仁科さんは兵学校71期です。

人間魚雷のことではないものの、黒木さんが特攻兵器に関して血書嘆願を上層部に提出したのは昭和18年3月、21歳の時。その後人間魚雷の構想もねり始め、10月には同期たちに人間魚雷の血書嘆願に署名血判をお願いしています。

12月、2ヶ月前にP基地に赴任してきた仁科さんと同部屋になり、思想等が似通っていた二人は、すぐに意気投合。仁科さんは兵科の知識で人間魚雷の構想を助けました。

同年末に二人で海軍省へ図面を持っていき、その当時考えていた人間魚雷の採用を直接訴えました。

翌年の1月から試作までの話は前述したので省略します。

上層部は脱出装置をつけることにこだわりましたが、彼らの脱出装置不要との申し入れによりこれを取りやめ、7月にようやく完成。

走航テストが黒木さん・仁科さんの操縦で行われ、見事成功し、その後正式採用されました。その当時黒木さんは22歳、仁科さんは21歳です。

(吉岡勲氏著「ああ黒木博司少佐」p282~284,305~306)

(上原光晴氏著「「回天」に賭けた青春」p100~103,106~108,130~131)

 

◆彼らの人間魚雷考案に私が思うこと

直接ご本人たちに聞いたわけではないので(当たり前)、ここからは私個人の見解です。

違うご意見があるという事も承知で書いていますので、「こんな考えのやつもいるんだな」ぐらいに思っていただけたら幸いです。 

当時を実際に生きたことがない私たちから見るとなかなか理解しづらい、というか、ほぼ理解は不可能なことだと思いますが、別々の場所や所属にいたにも関わらず、10名が10名、同じ「人間魚雷」というものに固執したのは、当時の状況下で、そこに何か見出せるものがあったからなのではないかと、私は思っています。

また、彼らは今でいう超絶エリートな方々。頭がものすごくいい人たちばかりです。

そして生前のエピソードや家族宛の手紙を調べると、とても家族思い、兄弟思いな方々です。

私は、そんな彼らだからこそ人間魚雷を考えたのだと思っています。

自分たちが始めたわけではない戦争の中、軍人として前線にたち、愛すべき家族や生まれ育った祖国を思い、同胞を思い、軍人である自分たちの立場から、さまざまなことを思い、苦悩し、必死に考えていたと思います。そんな中から生まれたのが人間魚雷の発想だったのではないかな、と。

表面的に見ると、彼らは「特攻兵器に拘った」ということになりますが、決して「必死」をゴールにしていたのではないでしょう。必死はあくまでも過程であり、ゴールではないと思います。

彼らにはその先に、自分たちにとって最も大事なものが見えていたのではないでしょうか。

そして、その大事なものを守るために、その当時一番最善で効率的な兵器、それが人間魚雷だった…

と私は考えています。(個人の見解なので(念押し))

※この見解は、回天兵器の善悪の話ではありません。また、創案者以外の方の話は出していませんので、どちらともご了承ください。

 

文春文庫より出ている「特攻 最後の証言」という本に、海兵72期で八丈島の基地回天隊隊長だった小灘利春さんのインタビューが載っています。

その一節より。

「私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っているんですね。一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。戦後の新聞はやれ、愚かな戦争とか愚かな特攻隊員などと書きたがりますが、回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか」(「特攻 最後の証言」政策委員会/「特攻 最後の証言」P.100)