紫紺の空の一つ星

趣味まるだしのブログ。回天特攻隊が中心。ご来訪頂き感謝致します。

証言から見る柿崎実中尉

8月3日は、柿崎実中尉のお誕生日でした。

去年のお誕生日記事でも書きましたが、柿崎さんの印象は、証言を残されている人によって様々です。

その証言を一個所に集めることで、柿崎さんの人物像がより立体的になるのではないかと思い、今月お誕生日だったこともあって、改めてここにまとめてみました。

 

 

ご家族から見た柿崎中尉

心の温かい、人を責めることを知らない性格。男ばかり六人の兄弟なのでしばしばけんかになったが、柿崎はいつも仲裁役であった。(中略)「若いのによくできている」と評判で、三番目の兄貢は「兄からみても偉い男でした」と語っている。

(上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:334)

どんな人よりも多くの時間を共に過ごす家族から「偉い男」と言われる柿崎さん。彼の温厚で礼儀正しく、周りへの配慮を忘れない能力は、成長過程で習得したというよりも、もともと生まれ持ったものだという考えの方が妥当だと思います…というぐらいすごすぎる!

兄弟喧嘩でも仲裁役という話は、折田艦長と古川さんの間に入って折田艦長に謝った行動が思い起こされます。隊長だから、という面ももちろんあるとは思いますが、きっと、脳で考える前に彼の身体が咄嗟に反応したことでもあるのでしょう。

 

海兵同期の小灘利春さんから見た柿崎中尉

彼は秋田県(※)酒田中学の出身であり、温厚で無口、ボソッとして感情をあまり顔に出さない、いかにも東北人らしい人物であった。

(特攻隊戦没者慰霊顕彰会.(平成11年5月).『会報特攻第39号』.小灘利春.「忘れがたい人たち 回天①」.頁:16)

※引用文なので原文ママですが、秋田県ではなく山形県です

小灘さんは、柿崎さんと同じ海軍兵学校72期。回天搭乗員として一緒に大津島に着任し、訓練に励んだ仲です。並んで写ったスナップ写真も残されています。

 回天隊の72期の方々の人柄を見ると、皆さん温厚であまりしゃべらない方が多い印象があります。(石川さんは特別枠だと思っています笑)証言されている小灘さん自身も、温厚なので足柄乗組時代はまわりから「長官」と呼ばれていたほど。

「東北人らしい…」とあるように、兵学校に入校してすぐの姓名申告(めちゃくちゃデカい声で自己紹介しなきゃいけない上に上級生から絶対にやじられるイベント)ではとても苦労したのではないかな、と思います…笑

 

部下の横田寛さんから見た柿崎中尉

東北なまりのぬけきらぬ、純朴そのものの好青年士官で小柄ながら兵学校で鍛え上げた芯の強さと、回天の操縦技術では一頭地をぬいていた。

(中略)柿崎隊長は礼儀の正しい温厚な人柄で、私はこのひとと接触しているうち、いかに戦争とは言え、こんな優秀な人材を回天で死なせるのは実に惜しいなあと、心底から思ったことである。 

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:421,422)

柿崎さんと横田さんは多々良隊、天武隊として共に出撃した、いわゆる上司と部下の関係ですが、その関係は兄弟のように深い絆で結ばれており、短い期間とはいえ、とても密接に、心を一つにして過ごされていました。

横田さんは、自分の隊長であった三好さん、柿崎さん、そして池淵さんのことがとにかく大好きで、とても尊敬していて、戦後仲間の集まりでも隊長たちの話ばかりするので周りから煙たがられていたそうです。(お話、私も聞きたかった…)

横田さんの著書「あゝ回天特攻隊」を読んだ上での柿崎さんの印象は、「静かな熱血男児」でした。温厚無口という、大人しめな証言が多い柿崎さんですが、部下である横田さんからの視点では、自分の任務に懸命に励み、隊長として責任を全うする熱血さを感じることが出来ました。横田さんはこの本の中で柿崎さんについてたくさん書かれているので、読んだことのない方はぜひ読んでみてください!

 

伊56潜軍医長の齋藤寛さんから見た柿崎中尉

どんな種類の本を読んでいても顔には何の表情も現われない。まったく能面のようである。その身に課されたあまりにも大きな困難と苦しい責任が、絶えず彼の内なる心を悩ませているように見えた。

(齋藤寛.(2012).『鉄の棺』.潮書房光人社.頁:254)

金剛隊として大津島から出撃し、発進の日を待ちながら艦内で過ごす柿崎さんは、齋藤さんの目を通すと、無表情で無口で、心悩んでいるように見えました。

本の中の柿崎さんは、黙ったまま頭を下げたり、ポツリポツリと喋ったり、どことなく重苦しいような、暗い雰囲気を感じられます。

搭乗員の艦内の様子の証言はよく「普段とまるで変わらず、笑ったり喋ったり遊んだりしている」というのを見かけますが、齋藤さんの証言からはそのような印象を受けません。

「心を悩ませているように見えた」というのはあくまでも齋藤さんの主観ですが、柿崎実中尉の涙で書いた、帰投後の柿崎さんの涙を考えると、齋藤さんがそう感じるような空気の重さが、小灘さんの証言にもあるもともとの性格も相まって、彼を包んでいたのかもしれません。

しかし本の終盤、帰投が決まり、長時間潜航の後に浮上して空気を吸い込んだ時、柿崎さんは嬉しそうに笑っています。最後に書かれたこの柿崎さんの表情は、齋藤さんの記憶に深く刻まれたものだったのかな、と勝手に想像しています。

 

コレスの佐丸幹男さんから見た柿崎中尉

感極まっていうべき言葉もないのであるが、ようようのことで「柿崎、しっかり頼むぞ」と軽く肩を叩いてやった。交通筒に入り込んだところで彼はちょっと振り返り、にっこり笑うと共に軽く右手を挙げ「さよなら」とただ一言を残して平然として回天下部ハッチを開き、中に没し去った。

(日本海軍潜水艦史刊行会.(1979).『日本海軍潜水艦史』.日本海軍潜水艦史刊行会.頁:711)

佐丸幹男さんは機関学校53期、柿崎さんとはコレス(兵学校、機関学校、経理学校を同時期に卒業したということ)の関係です。伊47潜の機関長附、そして柿崎さんの発進に際し、発進指揮官でした。

多々良隊出撃時、柿崎さんと佐丸さんは煙草を吸いながら「おい今度こそ出してくれよ」「うん今度こそ出てくれよ」という会話を交わしていますが、その時のことを佐丸さんは「発進の機に恵まれず帰還を重ねていた彼の気持が痛い程に胸に響いた」と記しています。「今度こそ出してくれよ」という言葉は、コレスの間柄だからこそぽろっと言えた柿崎さんの心のひとかけらだと思いました。

証言内に柿崎さんの描写はあまり多くないものの、齋藤さんの証言の時のような重い印象が感じられないのは、やはりこれもコレスだということが関係しているのではないでしょうか。

齋藤さんの証言の最後で柿崎さんは笑っていましたが、佐丸さんが見た発進時の柿崎さんも、笑っていました。そして、友達と別れる時の何気ない挨拶のように「さよなら」と一言。佐丸さんは柿崎さん、そして柿崎さんに続いて発進していった山口さん、古川さんに対して「幽明まさに境を異にせんとするこの境地、まことに人として達し得る究極の境地にまで彼らは到達しているというべきではなかろうか」との言葉を残されています。

日本海軍潜水艦史には、天武隊出撃時、途中で平生基地に寄り入浴し、その帰りに大発の上で撮った写真が載っています。柿崎さんが煙草を吸いながらくつろいでいる、おそらく生前最後の写真なのではないかと思います。

 

 

回天搭乗員の渡邊さんから見た柿崎中尉 

柿崎中尉は、回天搭乗員の心構えを判らせると言ったが、多くを言わなかった。しかし、斉木中尉の言葉からその言わんとする意味をよく理解した。
歩調を乱している者に声をかけ、肩を貸しても、苦しくても耐えていることを判って、素知らぬ顔を通してくれた。
柿崎中尉が、我々に対して望み、回天搭乗員として持たねばならぬ心構えを身を以って教え訓された日であった。

(渡邊美光.(1990).『青春の忘れざる日々:回天特攻一隊員の戦争』.渡邊美光.頁:274)

↓は引用文までの経緯の要約です

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これは2月某日、当時光基地で訓練を受けていた渡邊さんとその班員たちで基地を歩いていました。その中には私語をする人も。本来2名以上で行動する場合は、綺麗に整列して歩調を合わせ、目的地まで早駆けで向かうのがルール。この時の渡邊さんたちは、周りに士官搭乗員がいないことで少し気を抜いていたようです。

すると突然「そこの二飛曹たち、待てえ!」という大声が飛んできました。いないと思っていた士官搭乗員でしたが、実は1人いたようで、行動を見られていたのです。

 このような場合は、士官から超絶怒涛のお叱りを受け、修正(ぶん殴ること)されるパターンがお決まり。渡邊さんたちもそれを覚悟しました。が、東北弁訛りな士官の口調は意外にも静かなものでした。

「なぜ声をかけられたかわかるか?」から始まり、年寄りの兵ならともかく若い下士官がだらしない行動をとってることを残念に思ったこと、回天搭乗員の任務は敵艦への体当たりであり、それには気力が必要だということ、後を託さなければいけない人達がこれでは先が思いやられること…自分たちの立場から見て、何がどうそれに関係し、どう影響を与えるか、という事を丁寧にお説教した士官。

そして「これから、回天搭乗員としての心構えを判らせる。…いいなっ」との言葉に、とうとう鉄拳制裁が来るぞ!と身構える渡邊さん一行。

しかし士官は怒鳴りも殴りもせずにただ一言、「駆け足ー進め」

いつものパターンとは全く違う状況に混乱しながらも、渡邉さん達は走り出しました。

士官はいつのまにか自転車に乗り、都度号令を出してきて、結構長い時間走らされた渡邊さん達。中にはふらついて今にも倒れそうな人も何人か…つらそうな人には肩を貸して「倒れたら負けだぞ!負けるな!」と声を掛け合いました。歩調も乱れたこのような状況の中で士官の顔をちらっと見ると、素知らぬ顔で前を向いていてくれています。

最後は、速歩にしろ、という号令を出して、先に行ってしまいました。クールダウンの時間を設けてくれ、隊門についたころには、ふらふらな人もだいぶ呼吸が落ち着いた状態に。そこで待っていたのはさっきの士官ではなく分隊の指導官。そこで全員一旦ぶん殴られて、

「全員よく耐えた。疲れているだろうから、よく休ませてやってくれと、柿崎中尉から頼まれたから伝えておく」との言葉。

そして渡邊さんは引用文の内容を書籍に記しています。

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2月、大津島にいた柿崎さんがなぜ光基地にいたのかは不明ですが、東北弁訛りでこの独特なお説教方法は柿崎さんでしかないと思っています…。

規則だから!とかそういうことではなく、何のために注意をするのか、注意をした相手に何をわかってもらいたいか、どうなってもらいたいか、ということを整理して説教していることがよくわかり、控えめに言ってめちゃくちゃ素晴らしい上司では…???しかも最終的にめちゃくちゃ労ってくれている辺りが、もう、柿崎さん…!!ってなります(語彙力)

これは、柿崎さんが規則規則な軍隊生活において何を大切にしていたのかがよくわかるエピソードだと思います。海兵タイプが苦手な横田さんがとても慕っていたのも納得です。

 

回天の母、お重さんから見た柿崎中尉

「みんな、かわいいのよ。……柿崎さんはいつもこうなの。……いい人でしょう」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:206)

お重さん(倉重朝子さん)は、回天の大津島基地の最寄り、徳山にある料亭旅館「松政」の女将さん。もともと海軍が利用する旅館でもあり、基地が近い回天搭乗員たちもこの旅館をよく利用していました。彼らはお重さんのことを「母ちゃん」と呼び、お重さんも実の息子のように彼らの世話をしていました。柿崎さんもその中の一人です。

この引用文は横田さんの著書より引用していますが、お重さんのこの言葉が出た状況を説明をしますと、横田さんを連れて松政へ行った柿崎さんは、お酒を飲んで酔っ払ってぐーぐー寝てしまいました。そしてお重さんは、柿崎さんを丁寧に介抱してあげながらこの言葉をつぶやいたのです。

柿崎さんはもちろん、回天搭乗員一人一人に愛情をもって接してらしたのだなあ、と、お重さんの愛の深さがとても伝わる言葉だと思います。

開隊当初からいる柿崎さんは、他の搭乗員と比べお重さんと過ごす時間も少しだけ多かったのかな、と思います。

柿崎さんは、6人兄弟の5男。最後の帰省では「俺の顔をよく見ておけよ」とお母さんに何度も仰っていたそうで。柿崎さんがひとりの子どもとして、お母さんが大好きで、甘えたい気持ちがあったのかな。そんなことを、柿崎さんとお重さんのお話を読むたびに思います。

柿崎さんはお重さんに、このような遺書を残されているそうです。

おしげさん、母のような気がしてなりません。抱いて下さったときは感無量でした。誰にも負けず、しっかりやります。子分共も一騎当千のつわものぞろいです。私は幸福者です。

(南雅也.(1967年10月号).『かあちゃんと百三十八人の人間魚雷』.文藝春秋.頁:269)

 

 

現時点で私がまとめられる証言は以上です。新たな証言を見つけたら、また追加で書いていきたいと思います。

柿崎さんご本人をこの肉眼で見ることは叶わぬことなので、彼が遺していかれた言葉は勿論、彼を見ていた方々の目を通して、証言を通して、これからも彼の背中を追いかけていきたいです。