紫紺の空の一つ星

趣味まるだしのブログ。回天特攻隊が中心。ご来訪頂き感謝致します。

証言から見る柿崎実中尉

8月3日は、柿崎実中尉のお誕生日でした。

去年のお誕生日記事でも書きましたが、柿崎さんの印象は、証言を残されている人によって様々です。

その証言を一個所に集めることで、柿崎さんの人物像がより立体的になるのではないかと思い、今月お誕生日だったこともあって、改めてここにまとめてみました。

 

 

ご家族から見た柿崎中尉

心の温かい、人を責めることを知らない性格。男ばかり六人の兄弟なのでしばしばけんかになったが、柿崎はいつも仲裁役であった。(中略)「若いのによくできている」と評判で、三番目の兄貢は「兄からみても偉い男でした」と語っている。

(上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:334)

どんな人よりも多くの時間を共に過ごす家族から「偉い男」と言われる柿崎さん。彼の温厚で礼儀正しく、周りへの配慮を忘れない能力は、成長過程で習得したというよりも、もともと生まれ持ったものだという考えの方が妥当だと思います…というぐらいすごすぎる!

兄弟喧嘩でも仲裁役という話は、折田艦長と古川さんの間に入って折田艦長に謝った行動が思い起こされます。隊長だから、という面ももちろんあるとは思いますが、きっと、脳で考える前に彼の身体が咄嗟に反応したことでもあるのでしょう。

 

海兵同期の小灘利春さんから見た柿崎中尉

彼は秋田県(※)酒田中学の出身であり、温厚で無口、ボソッとして感情をあまり顔に出さない、いかにも東北人らしい人物であった。

(特攻隊戦没者慰霊顕彰会.(平成11年5月).『会報特攻第39号』.小灘利春.「忘れがたい人たち 回天①」.頁:16)

※引用文なので原文ママですが、秋田県ではなく山形県です

小灘さんは、柿崎さんと同じ海軍兵学校72期。回天搭乗員として一緒に大津島に着任し、訓練に励んだ仲です。並んで写ったスナップ写真も残されています。

 回天隊の72期の方々の人柄を見ると、皆さん温厚であまりしゃべらない方が多い印象があります。(石川さんは特別枠だと思っています笑)証言されている小灘さん自身も、温厚なので足柄乗組時代はまわりから「長官」と呼ばれていたほど。

「東北人らしい…」とあるように、兵学校に入校してすぐの姓名申告(めちゃくちゃデカい声で自己紹介しなきゃいけない上に上級生から絶対にやじられるイベント)ではとても苦労したのではないかな、と思います…笑

 

部下の横田寛さんから見た柿崎中尉

東北なまりのぬけきらぬ、純朴そのものの好青年士官で小柄ながら兵学校で鍛え上げた芯の強さと、回天の操縦技術では一頭地をぬいていた。

(中略)柿崎隊長は礼儀の正しい温厚な人柄で、私はこのひとと接触しているうち、いかに戦争とは言え、こんな優秀な人材を回天で死なせるのは実に惜しいなあと、心底から思ったことである。 

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:421,422)

柿崎さんと横田さんは多々良隊、天武隊として共に出撃した、いわゆる上司と部下の関係ですが、その関係は兄弟のように深い絆で結ばれており、短い期間とはいえ、とても密接に、心を一つにして過ごされていました。

横田さんは三好さん(多々良隊の隊長として出撃予定だったが直前に殉職)と柿崎さんのことがとにかく大好きで、とても尊敬していて、戦後仲間の集まりでもこの二人の隊長の話ばかりするので周りから煙たがられていたそうです。(隊長たちのお話、私も聞きたかった…)

横田さんの著書「あゝ回天特攻隊」を読んだ上での柿崎さんの印象は、「静かな熱血男児」でした。温厚無口という、大人しめな証言が多い柿崎さんですが、部下である横田さんからの視点では、自分の任務に懸命に励み、隊長として責任を全うする熱血さを感じることが出来ました。横田さんはこの本の中で柿崎さんについてたくさん書かれているので、読んだことのない方はぜひ読んでみてください!

 

伊56潜軍医長の齋藤寛さんから見た柿崎中尉

どんな種類の本を読んでいても顔には何の表情も現われない。まったく能面のようである。その身に課されたあまりにも大きな困難と苦しい責任が、絶えず彼の内なる心を悩ませているように見えた。

(齋藤寛.(2012).『鉄の棺』.潮書房光人社.頁:254)

金剛隊として大津島から出撃し、発進の日を待ちながら艦内で過ごす柿崎さんは、齋藤さんの目を通すと、無表情で無口で、心悩んでいるように見えました。

本の中の柿崎さんは、黙ったまま頭を下げたり、ポツリポツリと喋ったり、どことなく重苦しいような、暗い雰囲気を感じられます。

搭乗員の艦内の様子の証言はよく「普段とまるで変わらず、笑ったり喋ったり遊んだりしている」というのを見かけますが、齋藤さんの証言からはそのような印象を受けません。

「心を悩ませているように見えた」というのはあくまでも齋藤さんの主観ですが、柿崎実中尉の涙で書いた、帰投後の柿崎さんの涙を考えると、齋藤さんがそう感じるような空気の重さが、小灘さんの証言にもあるもともとの性格も相まって、彼を包んでいたのかもしれません。

しかし本の終盤、帰投が決まり、長時間潜航の後に浮上して空気を吸い込んだ時、柿崎さんは嬉しそうに笑っています。最後に書かれたこの柿崎さんの表情は、齋藤さんの記憶に深く刻まれたものだったのかな、と勝手に想像しています。

 

コレスの佐丸幹男さんから見た柿崎中尉

感極まっていうべき言葉もないのであるが、ようようのことで「柿崎、しっかり頼むぞ」と軽く肩を叩いてやった。交通筒に入り込んだところで彼はちょっと振り返り、にっこり笑うと共に軽く右手を挙げ「さよなら」とただ一言を残して平然として回天下部ハッチを開き、中に没し去った。

(日本海軍潜水艦史刊行会.(1979).『日本海軍潜水艦史』.日本海軍潜水艦史刊行会.頁:711)

佐丸幹男さんは機関学校53期、柿崎さんとはコレス(兵学校、機関学校、経理学校を同時期に卒業したということ)の関係です。伊47潜の機関長附、そして柿崎さんの発進に際し、発進指揮官でした。

多々良隊出撃時、柿崎さんと佐丸さんは煙草を吸いながら「おい今度こそ出してくれよ」「うん今度こそ出てくれよ」という会話を交わしていますが、その時のことを佐丸さんは「発進の機に恵まれず帰還を重ねていた彼の気持が痛い程に胸に響いた」と記しています。「今度こそ出してくれよ」という言葉は、コレスの間柄だからこそぽろっと言えた柿崎さんの心のひとかけらだと思いました。

証言内に柿崎さんの描写はあまり多くないものの、齋藤さんの証言の時のような重い印象が感じられないのは、やはりこれもコレスだということが関係しているのではないでしょうか。

齋藤さんの証言の最後で柿崎さんは笑っていましたが、佐丸さんが見た発進時の柿崎さんも、笑っていました。そして、友達と別れる時の何気ない挨拶のように「さよなら」と一言。佐丸さんは柿崎さん、そして柿崎さんに続いて発進していった山口さん、古川さんに対して「幽明まさに境を異にせんとするこの境地、まことに人として達し得る究極の境地にまで彼らは到達しているというべきではなかろうか」との言葉を残されています。

日本海軍潜水艦史には、天武隊出撃時、途中で平生基地に寄り入浴し、その帰りに大発の上で撮った写真が載っています。柿崎さんが煙草を吸いながらくつろいでいる、おそらく生前最後の写真なのではないかと思います。

 

 

回天搭乗員の渡邊さんから見た柿崎中尉 

柿崎中尉は、回天搭乗員の心構えを判らせると言ったが、多くを言わなかった。しかし、斉木中尉の言葉からその言わんとする意味をよく理解した。
歩調を乱している者に声をかけ、肩を貸しても、苦しくても耐えていることを判って、素知らぬ顔を通してくれた。
柿崎中尉が、我々に対して望み、回天搭乗員として持たねばならぬ心構えを身を以って教え訓された日であった。

(渡邊美光.(1990).『青春の忘れざる日々:回天特攻一隊員の戦争』.渡邊美光.頁:274)

↓は引用文までの経緯の要約です

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これは2月某日、当時光基地で訓練を受けていた渡邊さんとその班員たちで基地を歩いていました。その中には私語をする人も。本来2名以上で行動する場合は、綺麗に整列して歩調を合わせ、目的地まで早駆けで向かうのがルール。この時の渡邊さんたちは、周りに士官搭乗員がいないことで少し気を抜いていたようです。

すると突然「そこの二飛曹たち、待てえ!」という大声が飛んできました。いないと思っていた士官搭乗員でしたが、実は1人いたようで、行動を見られていたのです。

 このような場合は、士官から超絶怒涛のお叱りを受け、修正(ぶん殴ること)されるパターンがお決まり。渡邊さんたちもそれを覚悟しました。が、東北弁訛りな士官の口調は意外にも静かなものでした。

「なぜ声をかけられたかわかるか?」から始まり、年寄りの兵ならともかく若い下士官がだらしない行動をとってることを残念に思ったこと、回天搭乗員の任務は敵艦への体当たりであり、それには気力が必要だということ、後を託さなければいけない人達がこれでは先が思いやられること…自分たちの立場から見て、何がどうそれに関係し、どう影響を与えるか、という事を丁寧にお説教した士官。

そして「これから、回天搭乗員としての心構えを判らせる。…いいなっ」との言葉に、とうとう鉄拳制裁が来るぞ!と身構える渡邊さん一行。

しかし士官は怒鳴りも殴りもせずにただ一言、「駆け足ー進め」

いつものパターンとは全く違う状況に混乱しながらも、渡邉さん達は走り出しました。

士官はいつのまにか自転車に乗り、都度号令を出してきて、結構長い時間走らされた渡邊さん達。中にはふらついて今にも倒れそうな人も何人か…つらそうな人には肩を貸して「倒れたら負けだぞ!負けるな!」と声を掛け合いました。歩調も乱れたこのような状況の中で士官の顔をちらっと見ると、素知らぬ顔で前を向いていてくれています。

最後は、速歩にしろ、という号令を出して、先に行ってしまいました。クールダウンの時間を設けてくれ、隊門についたころには、ふらふらな人もだいぶ呼吸が落ち着いた状態に。そこで待っていたのはさっきの士官ではなく分隊の指導官。そこで全員一旦ぶん殴られて、

「全員よく耐えた。疲れているだろうから、よく休ませてやってくれと、柿崎中尉から頼まれたから伝えておく」との言葉。

そして渡邊さんは引用文の内容を書籍に記しています。

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2月、大津島にいた柿崎さんがなぜ光基地にいたのかは不明ですが、東北弁訛りでこの独特なお説教方法は柿崎さんでしかないと思っています…。

規則だから!とかそういうことではなく、何のために注意をするのか、注意をした相手に何をわかってもらいたいか、どうなってもらいたいか、ということを整理して説教していることがよくわかり、控えめに言ってめちゃくちゃ素晴らしい上司では…???しかも最終的にめちゃくちゃ労ってくれている辺りが、もう、柿崎さん…!!ってなります(語彙力)

これは、柿崎さんが規則規則な軍隊生活において何を大切にしていたのかがよくわかるエピソードだと思います。海兵タイプが苦手な横田さんがとても慕っていたのも納得です。

 

回天の母、お重さんから見た柿崎中尉

「みんな、かわいいのよ。……柿崎さんはいつもこうなの。……いい人でしょう」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:206)

お重さん(倉重朝子さん)は、回天の大津島基地の最寄り、徳山にある料亭旅館「松政」の女将さん。もともと海軍が利用する旅館でもあり、基地が近い回天搭乗員たちもこの旅館をよく利用していました。彼らはお重さんのことを「母ちゃん」と呼び、お重さんも実の息子のように彼らの世話をしていました。柿崎さんもその中の一人です。

この引用文は横田さんの著書より引用していますが、お重さんのこの言葉が出た状況を説明をしますと、横田さんを連れて松政へ行った柿崎さんは、お酒を飲んで酔っ払ってぐーぐー寝てしまいました。そしてお重さんは、柿崎さんを丁寧に介抱してあげながらこの言葉をつぶやいたのです。

柿崎さんはもちろん、回天搭乗員一人一人に愛情をもって接してらしたのだなあ、と、お重さんの愛の深さがとても伝わる言葉だと思います。

開隊当初からいる柿崎さんは、他の搭乗員と比べお重さんと過ごす時間も少しだけ多かったのかな、と思います。

柿崎さんは、6人兄弟の5男。最後の帰省では「俺の顔をよく見ておけよ」とお母さんに何度も仰っていたそうで。柿崎さんがひとりの子どもとして、お母さんが大好きで、甘えたい気持ちがあったのかな。そんなことを、柿崎さんとお重さんのお話を読むたびに思います。

柿崎さんはお重さんに、このような遺書を残されているそうです。

おしげさん、母のような気がしてなりません。抱いて下さったときは感無量でした。誰にも負けず、しっかりやります。子分共も一騎当千のつわものぞろいです。私は幸福者です。

(南雅也.(1967年10月号).『かあちゃんと百三十八人の人間魚雷』.文藝春秋.頁:269)

 

 

現時点で私がまとめられる証言は以上です。新たな証言を見つけたら、また追加で書いていきたいと思います。

柿崎さんご本人をこの肉眼で見ることは叶わぬことなので、彼が遺していかれた言葉は勿論、彼を見ていた方々の目を通して、証言を通して、これからも彼の背中を追いかけていきたいです。

沖縄にある海軍戦没者慰霊之塔と回天特攻隊

沖縄県豊見城市にある海軍壕公園の、旧海軍司令部壕。

ここはかつて沖縄方面根拠地隊の司令部が置かれていた場所であり、今も壕は当時のままに、整備がなされ内部見学ができるようになっています。

ビジターセンターの入り口の近くには、海軍戦没者慰霊之塔が。

この塔が建つ場所は「火番森(ヒバンムイ)」と言い、琉球王朝時代、他所から入港する船を首里王府に知らせるため、狼煙を上げていた高台です。故に、那覇の街、そして海も見渡せる、景色がとても良い場所。

沖縄出身海軍軍人の方々は、ほとんどの方が「慰霊塔を建てたい」という思いを持たれていたようですが、その沖縄出身海軍軍人の一人である宮城嗣吉さんが「火番森に慰霊塔を建てたい」と、初めに行動を起こしました。その行動は後に沖縄海友会となる「海軍戦没者慰霊之塔建立発起人会」へと引き継がれ、昭和33年、無事に慰霊塔が建立されました。

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この慰霊塔は、この土地で戦った沖縄方面根拠地隊のみならず、沖縄戦に参加した部隊が合祀されており、作戦海域が沖縄だった回天特攻隊の隊名と、その作戦中に沈没した潜水艦、白龍隊を乗せた第18号輸送艦も、参加艦船部隊名の碑にその名が刻まれています。

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参加部隊名の刻名に携わっておられたのは、安里芳雄さんというお方です。

まだ今の慰霊碑ほど部隊名の詳細が刻名されていなかった時、「うちの部隊名を刻名できないか」という相談がありましたが、既に銘板に余白はなく、どうしたものかと悩まれていました。

しかし、ある日たまたま海軍壕に訪れた際、慰霊碑の前に部隊名が添えられた花束や供花が数多くあるのを目にしました。毎年生存者や遺族が慰霊をしに来られている事を知った安里さんは、新たに刻名し直すことを決意されます。

当時の不正確な資料が多い中での調査や、沈没地点の範囲の限定に関する問題等、様々な困難がありましたが、2年間を調査に費やし、昭和56年、慰霊碑が新たに完成しました。

御遺族、生存者、そして英霊を思い、沖縄に関係する部隊をできるだけ多く刻名しようと力を尽くしてくださった安里さん。その思いと行動に、ただただ敬服するばかりです。

突然個人的な話になってしまい申し訳ないですが、今年から沖縄にひょっこり引っ越してきた私。まさか沖縄に回天隊が関係する慰霊碑があるとは思ってもいなかったので、とても驚きました。そして、ただ彼らを追っているだけの身ではありますが、とても嬉しく思いました。

回天隊含め合祀されている皆様を思い、今後定期的に参拝しようと思います。 

 

慰霊碑に回天隊が含まれている理由について、安里さんのお話を引用します。

旧海軍艦船は沈没場所が多方面にわたり、太平洋の真中であったり、外国の沿岸であったりで、遺族生存者にとっては慰霊祭を行う場所がなく、最も近い島にその場所を求めるというのが実情でありますので、太平洋、東支那海等での沈没艦艇の慰霊のよりどころとしてわが沖縄が選ばれるのも無理からぬことかと思われます。ましてや従事した作戦が沖縄防衛戦にかかわりがあったとすれば、なおさら沖縄が適地でありましょう。

そのために戦艦大和を中心とする沖縄海上特攻作戦参加艦艇や、沖縄方面作戦に従事中の米国艦艇を攻撃のため沖縄東方の太平洋に沈没した潜水艦回天隊等も含まれているのであります。

(沖縄海友会.(1984).『25年の歩み』.沖縄海友会.頁:68)

 

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以下、合祀されている回天隊・潜水艦・輸送艦の詳細です。

参考資料:沖縄海友会.(1984).『25年の歩み』.沖縄海友会/回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会

回天隊

・多々良隊(土井隊):土井秀夫中尉、亥角泰彦少尉、館脇孝治少尉、菅原彦五二飛曹、西山隆一曹(整備員)、赤星敏夫一曹(整備員)、伊藤二三男水曹(整備員)、野口藤太郎水長(整備員)…計8名

・多々良隊(福島隊):福島誠二中尉、八木寛少尉、矢代清二飛曹、石直新五郎二飛曹、宮崎和夫二飛曹、川浪由勝二飛曹、熊野義隆一曹(整備員)、谷村昌寿二曹(整備員)、桑原竹二二曹(整備員)、沢井滝夫水長(整備員)、遠坂末喜水長(整備員)、物部信一郎水長(整備員)…計12名

・天武隊(八木隊):八木悌二中尉、松田光雄二飛曹、海老原清三郎二飛曹、安部英雄二飛曹…計4名

・天武隊(柿崎隊):柿崎実中尉、前田肇中尉、古川七郎上曹、山口重雄一曹…計4名

・振武隊(藤田隊):千葉三郎一飛曹、小野正明一飛曹…計2名

・轟隊(小林隊):小林富三雄中尉、金井行雄一飛曹、斉藤達雄一飛曹、岩崎静也一飛曹、田辺晋一飛曹、釜野義則二曹(整備員)、梅下政男二曹(整備員)、坂本茂水長(整備員)、高沢喜一郎水長(整備員)、藤原昇水長(整備員)…計10名

・多聞隊(勝山隊):勝山淳中尉、関豊興少尉、荒川正弘一飛曹、川尻勉一飛曹…計4名

・多聞隊(伴隊):伴修二中尉、水井淑夫少尉、林義明一飛曹、小森一之一飛曹、中井昭一飛曹…計5名

・多聞隊(成瀬隊):成瀬謙治中尉、上西徳英一飛曹、佐野元一飛曹…計3名

・白龍隊(河合隊):河合不死男中尉、堀田耕之祐少尉、田中金之助二曹、新野守夫二曹、猪熊房蔵二飛曹、赤近忠三二飛曹、伊東祐之二飛曹…計10名(※基地要員120名、搭乗員7名、氏名判明者は合わせて14名であるが、合祀部隊名一覧に10名とあったため)(7/7追記:旧海軍司令部壕の事業所の方に問い合わせたところ、沖縄海友会さんでも個人名の把握はされておらず、当時に判明していた人数が10名だったのではというお話でした)

 

潜水艦・輸送艦

・伊44潜(多々良隊):増沢清司艦長以下129名

・伊56潜(多々良隊):正田啓治艦長以下122名

・伊361潜(轟隊):松浦正治艦長以下81名

・第18輸送艦(白龍隊):大槻勝大尉以下225名

 

海軍戦没者慰霊之塔に合祀されているすべての御霊の安らかなることをお祈りいたします。

柿崎実中尉の涙

涙を流す、泣く、という事。

涙を流す理由としては、悲しさ、怒り、悔しさなど、何かしらの感情が込み上げる事があげられますが、今回は理由や感情ではなく行為そのものについて考えます。

そもそも、泣くという事はどういう事なのか。

泣く行為というのは弱虫とか恥ずかしいとか女々しいとか、一般的に考えるとそんなイメージがついていると思いますが、実は精神的に強い人ができる事なのです。

泣く事は、自分の感情、自分の弱さと向き合い、そのままをきちんと受け止めている行為であるという事。泣くのを我慢して、その感情をなかった事にするというのは、自分の弱い部分や、悲しい・つらい・悔しい…などと感じた事を押さえつけ、見なかった事にする、イコール、自分のありのままを認めない、という事になります。

自分を認め、どんな自分であろうと自分自身としっかり向き合えているからこそ、涙を流し、感情を開放できるのです。

「ありのままの自分を認める」「自分と向き合う」文字にするのは簡単ですが、実際やるとなると大変困難であり、そして終わりなきことでもあります。

自分自身と向き合う力と根気強さがある人=精神的に強い人は涙を流す事ができる、という事はお分かりいただけたでしょうか。

 

私が尊敬している柿崎実中尉には、「泣いていた」とされる証言が二つ残されています。

一つは昭和20年3月31日。

それは同年3月29日、多くの戦友に見送られ光基地を出撃した多々良隊、柿崎隊長以下6名を乗せた伊47潜が、30日に米軍の攻撃により負傷し、作戦中止・基地帰投を決めた日です。

伊47潜艦長である折田善次さんは、その日柿崎さんが「なぜ自分たちだけ突入の機会に恵まれないのか」と嘆いたという証言を残されています。

回天刊行会の「回天」や上原光晴さんの著書「「回天」に賭けた青春」、ザメディアジョンの「人間魚雷回天」等にもそのお話が載っていますが、雑誌「丸」の臨時増刊「特集・神風と回天」に載っている鳥巣さんと折田さんの記事では、その時の状況が詳しく書かれているので、今回は丸から引用します。(※臨時増刊の発行年が昭和33年なのですが、この記事自体が昭和32年の5月号から14回にわたって本誌に連載されており、それをひとまとめにしたのがこの臨時増刊だそうです。)

 

丸臨時増刊によると、31日早朝に内之浦港に入港して艦の調査、艦隊司令部への報告等を行い、日も沈みかけた夕方、折田艦長は艦橋にて一人で煙草を吸っていました。

ふと窓越しに前甲板を見ると、6号艇(回天)のかげに柿崎さんがしょんぼり腰をおろし、頭を両手で抱え込み思い悩んでいるような様子が見えました。

艦長は柿崎さんのもとへ行き、「暗くなったから艦内にはいれ、風邪をひくぞ」と声をかけます。

 柿崎さんはその声にはっとしたようで、袖で顔をふいて立ち上がりました。なぜ袖で顔を拭いたのかというと、泣いていたからです。

二人はしばらく無言でしたが、柿崎さんから先に口を開き、このような会話をしています。

「残念です、艦長。私たちばかり、なぜこうして三度も、突入の機会に恵まれないのでしょうか。武運に見放されているのでしょうか」

「隊長、君の気持はよくわかっている。なにも君たちが悪いのではない。艦長の俺が、へまなことばかりやったからだ。許してくれ」

「いいえ、艦長を責めて申し上げるのではありません。武運に恵まれないことを嘆いているのです。最後の訣別をかわしてきた戦友の前に、このままおめおめ生きて還るくらいなら、いっそのこと、思い切って自決してしまいたい気持です」

「犬死ならいつでも出来る。金剛隊でも神武隊でも、今度の多々良隊でも、大事な生命をつなぎとめることが出来たのだ。短気を起してはいかん。絶好の死処を得るまでは、生死を超克して進むのだ。いいか。判ってくれるか」

(鳥巣建之助,折田善次.(1958).『回天特攻作戦の全貌(丸 臨時増刊より)』.潮書房.頁:248)

 この時、あたりはすっかり暗くなっていました。

 

31日については他の証言も残されています。 多々良隊隊員であり、生還された回天搭乗員・横田寛さんの著書「あゝ回天特攻隊」によると、折田艦長の証言と同じくその日は明け方に内之浦(書籍には「種子島の~」とありますが、Googleマップで調べると志布志湾にありました)に入港したそうですが、横田さんは疲れのため日が高くなるまで熟睡していました。

士官と下士官の寝る場所はそれぞれ別の場所なので、前田さんが横田さん達を起こしに行き、柿崎隊が全員集合したところで柿崎さんが作戦中止・基地帰投が決まった事を告げ、全員に衝撃が走ります。

甲板の回天を見に行くと、とてもひどい有様。回天だけではなく、艦もズタボロで、全員放心状態です。すると後ろに立っていた折田艦長が、「再起をはかろう」と声を掛けました。

それに対し古川さんが、強い口調でこう言いました。

「艦長、なんとかなりませんか。われわれはねえ、この前も帰ったんですよ。こんどもまた帰るなんて、いったいどのツラ下げて帰れるんだ」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:269,270)

当時折田艦長は海軍少佐、古川さんは上等兵曹。上下関係が非常に厳しい軍隊で、普段では考えられないような状況が起こり、横田さんは「思わず、ひゃっとした」そうです。

隊長である柿崎さんが咄嗟に古川さんをたしなめ、折田艦長に謝ります。その時の詳しい状況はぜひ「あゝ回天特攻隊」にてご確認ください。

そして折田艦長が去った後、柿崎さんは隊の5人に、諦めたような言い方でこう告げました。

「みんな、いいか。おれを中心にして、行動をともにする約束だったぞ。呉に帰れば、一週間で修理ができると艦長がいっていた。すぐまた出られるのだぞ。古川、わかったな。今回は黙って帰ろう。」

(横田寛.(1994).『あゝ回天特攻隊』.光人社.頁:272)

  

横田さんの手記、折田さんの証言、この二つの時系列を考えると、横田さんの手記のお話→折田さんの証言の順番で出来事が起こったのだと思います。

改めて状況を整理すると…

31日早朝に内之浦に停泊、日中に柿崎隊全員が状況を目の当たりにし、古川さんは気持が抑えられず艦長に物申してしまいます。柿崎さんは隊長として古川さんを制止し、艦長に謝り、隊員を励ましました。

夕方、柿崎さんは一人回天のそばで腰を下ろし頭を抱えて泣いていました。そこに現れた艦長に対し、自分の胸の内を明かし、自分の状況を嘆きます。艦長は柿崎さんの言葉を受け止め、彼を励ましました。

 

隊長としての役割をしっかりと果たし、隊員をまとめあげ、士気を下げぬよう配慮をされていた柿崎さん。しかし心は古川さん同様、爆発寸前でした。

 柿崎さんの詳しいお話は柿崎実中尉のまとめを読んでいただきたいのですが、彼は多々良隊の前にすでに2度出撃し、帰投しています。

回天搭乗員が出撃する際は、出撃数日前〜前日に壮行会が開かれ、偉い人や他の隊員と別れの盃を交わし、最後の大騒ぎをします。当日も短刀授与式が行われ、戦友たちに「頼んだぞ!」と見送られながら「征きます!」と叫んで出撃します。この時搭乗員たちは、これでもう日本の土を踏む事は、日本の美しい風景を見る事は2度とないと、任務を果たさねばと、覚悟を決めた事でしょう。

柿崎さん、前田さん、山口さん、古川さんは多々良隊時点でこれを3度行いました。

この事について改めて考えると、古川さんや柿崎さんが仰った言葉の重みを感じられると思います。

 

もう一つの柿崎さんの涙に関する証言は、金剛隊で出撃し、突入中止となり帰投した際の事。

小灘さんの著書「特攻回天戦」にその記述があります。

戦後、小灘はある級友から、柿崎実のことを聞いた。

彼は「金剛隊」の長い航海ののち呉軍港の宿で、居合わせたその級友と飲んだのだが、そのとき彼はひとり声もなく泣いていた、というのである。

(小灘利春,片岡紀明.(2006).『特攻回天戦:回天特攻隊隊長の回想』.光人社.頁:115)

 小灘さんは、柿崎さんと一緒に回天隊へ配属された兵学校同期です。柿崎さんは基地に帰ってきた後も、表情を変えることなくいつも通りにふるまっていたため、柿崎さんの苦悩に気づくことはありませんでした。戦後に級友の方からこのお話を聞いて、愕然とされたそうです。

 

 

日本人として、軍人として、兵学校出身として、回天特攻隊として、搭乗員として、隊長として…あらゆる責務と、出撃帰投を繰り返す状況。柿崎さんの人生には、抱えるにも大きすぎるものが、あまりにも多くのしかかりすぎていました。しかしそれを、その事への苦悩を、周りに気づかれることもなく、普段通りに振る舞えた、その精神の強さ。それは彼の涙が裏付けていると感じました。

彼の人生は、彼だからこそ全うする事が出来たのだと、深く頷けます。

コロナで心が不安定な日々を送っているあなたへ

↓動画の概要欄より↓

新型コロナウイルスによって、 日々の生活の中で不安や怒り、ネガティヴな感情を抱いている方へ。

回天搭乗員の方々について調べている私が「今できること」は、 このように彼らの言葉を紹介することくらいしかありませんが、 一人でも多くの方に彼らの言葉が届き、 「メッセージ」を受け取ってくださることを願います。

私たちは、 必ずやってくる「桜花爛漫の春」を、 「晴天の日」をしっかりと見つめ、 自らの信念を胸に、前に進んでいく。

恐れや不安さえも包み込む大きな愛の信念を、あなたが既に持っていることに気づいてください。

 

「私が今できること」を考えて、動画を作成しました。

内容的には前回アップした記事とほとんど同じ方々の言葉のご紹介ですが、一部違うところとして、柿崎さんの言葉を「幸福とは…」に変更(記事でご紹介した言葉は長かったので…)、松尾さんの言葉を追加したというところがあります。

音楽以外は全てiPhoneで作成したのでシンプルな動画になりましたが、ご覧いただけると嬉しいです。

 

そして今日4月10日は仁科関夫さんのお誕生日!

以前にもご紹介した、14歳のお誕生日を迎えられた仁科さんの日記の言葉をここに引用します。

今日は僕の誕生日だ。ぼくもこれで満十四歳になったのだ。実に十四年一日の如く、光陰矢の如し。もう十四年の月日は流れたのだ。うかうかしてはおられぬ。やがて年をとるだろう。しっかり励もう

※現代仮名遣いに直しています

(前田 昌宏.(1989).『回天菊水隊の四人―海軍中尉仁科関夫の生涯』.光人社.頁:142)

今こそ読みたい回天搭乗員の言葉

皆さん、お元気ですか。

私はもともと引きこもりなので、普段と何ら変わらぬ生活の中、とても元気にあつ森をやりこみながら過ごしております。笑

世界が変化の時を迎え、日々様々なことが起こり、そして様々な情報が飛び交い、心が不安定になりがちですが、私がここ最近、特に繰り返し読んでいる回天隊の方々の言葉をいくつかご紹介します。

 

 

上別府宜紀大尉

"冬来りなば春遠からじ"、厳寒の冬を過ごして桜花爛漫の春が来ると同様、あらゆる苦境を忍び、一途に光明の彼岸に邁進するところに我々日本人の生き甲斐があり、生命があるのだと思います。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:171)

 

本井文哉少尉

ある南洋の島の土人は、雨降りの日を喜ぶそうだ。

それは、その後には必ず晴天の日が来るから……。

それは何日後に来るかも知れない。しかし必ず来る。

よく堪えて、頑張ってくれ。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:180)

 

和田稔少尉

どんな風が吹こうと、ぬかるみがつづこうと、しっかりと歩調をとって、まん前を向いて、地をふみしめ進んで行こう。

時代、時代で空飛ぶ向きの異なるような軽薄な木の葉は相手にしないで行こう。

(和田稔.(1995).『わだつみのこえ消えることなく:回天特攻隊員の手記』.角川文庫.頁:93)

 

久家稔少尉

蓮の花は泥沼のなかにありながらあのような清らかな花を咲かせる。

いかに汚穢に充ちた世界にあっても、信念を堅く持っておれば、それには染まらず、生きて行けるものである。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:239)

 

黒木博司大尉

自分の中を流れる天の命、此れを知り此れを伸ばし此れを明らめ此れに依って生き死なんこそ私達の最も大切なことであります。

(吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:119)

 

柿崎実中尉

死生観とは、死を考えるから起きる考えだよ。考えなければこんな事は問題ではない。

人間は日常茶飯事とおなじ自然の一現象にすぎない。

死をどうしてそれだけ大きな問題に考えるのか。之も慾の為めだ。即ち愛の欠乏した人間の考える事だ。

臣として君の愛を感じ、子として親の愛を感じ、人としては神の愛を感じ、妻としては夫の愛を感ずる人にとっては、死ぬという事は考えられない事だ。

(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:222)

 

 

どうか皆さん、こんな中ですが、否、こんな中だからこそ、自分の心を、自分の信念を大切にしてあげてください。そして「愛」を思い出してください。

自分を愛してくれている存在がいること、自分が愛している存在がいることを、どうか思い出してください。

自分の心に不安や恐れ、怒りがあるなあと感じる方。

そのようなネガティブな感情にズルズルと引きずり込まれている状況から、脱することのできる方法です。

「晴れの日」も「桜花爛漫の春」も、必ずやってきます。

外的要因に流されず、自分の信念と愛を忘れずに、これからも自分の人生を生きていきましょう。

周南きさらぎ文化祭の事後報告

久しぶりの投稿です。ずっと放置しててすみません…。

ブログでは後からのご報告で申し訳ないですが(ツイッターでのみ告知してました)、2月22日に、周南市徳山駅前図書館にて行われた周南きさらぎ文化祭の回天顕彰会さんのブースにて、私の文章を展示していただきました。

このような貴重な機会にお声がけいただけて、顕彰会さんには本当に感謝あるのみです!

顕彰会さんよりいただいたお写真で、展示の様子をご紹介します。↓

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顔写真の存在感に、自分の顔ながらわろてまいそうになりましたが…←

丁寧に、そして大きく展示していただいて感激です(;∀;)

素人の拙い文章ではありますが、会場に訪れた方に、少しでも回天に関する事について伝えることができていたらいいな、と思ってます。

 

展示していただいた文章は、以前ブログに書いた「人間魚雷(回天)を考えた若者たち」の文章がおかしいところやいらないところを書き直して、少し読みやすくしたものです。

内容に関しては以前と変わらないものではありますが、改訂版として新たな記事をアップしたので、また読んでいただけると嬉しいです。

tnavy.hatenablog.com

人間魚雷(回天)を考えた若者たち・改

 

もくじ

 

 

はじめに

 日本に特攻兵器として初めて誕生した、回天。

 後に回天という名前となる人間魚雷を発案したのは、海軍機関学校出身の黒木博司さん、そして海軍兵学校出身の仁科関夫さんだという話はとても有名です。しかし人間魚雷というものを考えていた人は、実はこの2人だけではありません。さまざまな場所で当時の戦争に直面していた若者たちが、人間魚雷、体当たり兵器の採用を訴えていました。その中で、実現までこぎつけたのが黒木博司さん、仁科関夫さんでした。

 現段階で私が知っている人間魚雷を考案した方々は、後述する10名です。この資料では、10名の方々が「いつ頃」、「どのような流れで」人間魚雷を考えたのかを、書籍をもとに簡単にまとめました。

(※和田稔さんに関しては、ドイツの人間魚雷に関して述べているという説もあるので、こちらには記載しておりません)

引用・参考文献は、各項目の最後にカッコ書きで番号を振っておりますので、「引用・参考文献一覧」の該当する番号よりご確認ください。

なお、この文章は筆者のブログ「紫紺の空の一つ星」に掲載している「人間魚雷(回天)を考えた若者たち」という記事の内容を一部編集・修正したものです。

 

 

 

人間魚雷を考えた若者たち

 ◆竹間忠三さん

 呂106潜の水雷長だった竹間さんが人間魚雷の構想の意見書を上層部に提出したのは昭和18年の初め、26歳の時。

意見は却下されましたが、竹間さんがこの意見書を提出した理由について、

「これは特修科学生中の同僚の体験談と、第七潜水戦隊司令部勤務中の第一線潜水艦の運用状況から、将来の潜水艦戦の様相を汲みとり、対策の早期確立の必要を感じたからであろう」

と、同期の菅昌徹昭さんは仰っています。[1]

 

 

◆沢崎正恵さん

 支那事変に従軍されていたご経歴があるので、今回ご紹介する方々の中では最年長だと思われます。

昭和18年6月、「絶対に敵の空母を沈めることのできる兵器を開発して、起死回生をはからねばならない」との思いで人間魚雷の設計を開始。翌年1月に完成し、その翌月に、自分が乗るつもりで海軍軍令部へ嘆願書を持ち込みました。

 嘆願書は採用されませんでしたが、沢崎さんは後に新聞で回天の存在を知り「私の考案した兵器に乗って死んでいった若者がいる―と複雑な気持でした」と語っています。[2]

 

◆近江誠さん

 昭和18年、伊165潜はインド洋で敵駆逐艦にズタズタに攻撃されます。その航海長だった近江さんは、「一人が相手を道ずれにして死に、味方の九十九人が助かる方法はないか」と考えた結果、人間魚雷の構想にいきつきます。同年末~昭和19年初め頃、自分が乗るつもりで血書嘆願を上層部に提出しました。

 近江さんの生年月日は不明なのですが、海軍兵学校70期なので当時20代前半だと思われます。後に回天基地へ赴任されました。[3]

 

◆橋口寛さん

 昭和19年巡洋艦「摩耶」に乗っていた橋口さんは、人間魚雷兵器を血書嘆願しています。当時19歳か20歳あたり。

 その後、回天基地への転任の辞令が出されます。[4]

※橋口さんに関する詳細は調査中です

 

◆三谷与司夫さん

 昭和19年10月、駆逐艦「桐」の水雷長だった三谷さんは、守るべき空母4隻を失った捷一号作戦からの帰投中に、「この優秀な魚雷を敵艦に当てるには人間が乗っていくしかない」と考え、絵を描いた志願書を艦長に提出しました。当時21歳。

 帰投後、回天基地へ転任されました。[5]

 

◆深佐安三さん・久良知滋さん・久戸義郎さん

 彼らの考えていたものこそが、後に「回天」と呼ばれる人間魚雷の原点です。

 昭和18年12月、当時20代前半の3人の青年士官が、使われていない93式魚雷の活用方法と戦闘方法について毎晩考え、話し合っていたのが始まりです。翌月、同じP基地(特殊潜航艇の基地)にいた設計に詳しい機関科の黒木さん(後述)と、3人と同期の仁科さん(後述)も加わり、5人で回天の実現化に励むことに。

 やっとの思いで設計図を完成させ、5人でP基地の司令へ提出しますが、処分されてしまったので、今度は海軍関係のあらゆる場所に、司令に内緒で送りました。

 その年の2月、上層部が人間魚雷の構想に関して興味を示したため、さっそく試作の話が持ち上がりました。が、これからという時に、3人は辞令により回天に携わることができなくなり、回天の実現はその後黒木さんと仁科さんが行っていきました。

 回天の原点をつくりだした3人ですが、回天搭乗員にはなれませんでした。[6]

 

◆黒木博司さん・仁科関夫さん

 人間魚雷のことではないものの、黒木さんが特攻兵器に関して血書嘆願を上層部に提出したのは昭和18年3月、21歳の時。その後人間魚雷の構想もねり始め、10月には同期たちに人間魚雷の血書嘆願に署名血判をお願いしています。

 12月、2ヶ月前にP基地に赴任してきた仁科さんと同部屋になり、思想等が似通っていた2人は、すぐに意気投合。仁科さんは兵科の知識で人間魚雷の構想を助けました。

 同年末に二人で海軍省へ図面を持っていき、その当時考えていた人間魚雷の採用を直接訴えました。

 翌年の1月から試作までの話は前述したので省略します。

 上層部は脱出装置をつけることにこだわりましたが、彼らの脱出装置不要との申し入れによりこれを取りやめ、7月にようやく完成。走航テストが黒木さん・仁科さんの操縦で行われ、見事成功し、その後正式採用されました。その当時黒木さんは22歳、仁科さんは21歳です。[7]

 

 

彼らの人間魚雷考案に私が思うこと

 当時を実際に生きたことがない私たちから見るとなかなか理解しづらい、というか、ほぼ理解は不可能なことだと思いますが、別々の場所や所属にいたにも関わらず、10名が10名、同じ「人間魚雷」というものに固執したのは、当時の状況下で、そこに何か見出せるものがあったからなのではないかと、私は思っています。

 また、彼らは今でいうとてもエリートな方々。頭がものすごくいい人たちばかりです。そして生前のエピソードや家族宛の手紙を調べると、とても家族思い、友人思いな方々です。私は、そんな彼らだからこそ人間魚雷を考えたのだと思っています。

 軍人として戦争の前線にたち、愛すべき家族や生まれ育った祖国を思い、同胞を思い、軍人である自分たちの立場から、さまざまなことを思い、苦悩し、必死に考えていたと思います。そんな中から生まれたのが人間魚雷の発想だったのではないかな、と。

 表面的に見ると、彼らは「特攻兵器に拘った」ということになりますが、決して「必死」をゴールにしていたのではないでしょう。必死はあくまでも過程であり、ゴールではないと思います。

 彼らにはその先に、自分たちにとって最も大事なものが見えていたのではないでしょうか。そして、その大事なものを守るために、その当時最善で効率的な兵器、それが人間魚雷だったのではないか、と私は考えています。

 

最後に、八丈島の基地回天隊隊長だった小灘利春さんのインタビューの内容の一部をここに引用します。

「私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っているんですね。一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。戦後の新聞はやれ、愚かな戦争とか愚かな特攻隊員などと書きたがりますが、回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか」[8]

 

 

引用・参考文献一覧

 [1] 第六十五期回想録編集委員会.(1985).『第六十五期回想録』. 海軍兵学校第六十五期会.頁:582

[2] 恩田重宝.(1988).『特攻』.講談社.頁:304〜307

[3] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:97~99

[4] 小灘利春・片岡紀明.(2006).『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』.光人社.頁:25

[5] 西尾邦彦.(1995).『関西ネイヴィクラブ講演録(平成7年5月23日)』. 関西ネイヴィクラブ事務局.頁:190

[6] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:23~25,118~121

[7] 吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:282~284,305~306

上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:100~103,106~108,130,131

[8] 『特攻 最後の証言』制作委員会.(2013).『特攻 最後の証言』.文藝春秋.頁:100