今こそ読みたい回天搭乗員の言葉
皆さん、お元気ですか。
私はもともと引きこもりなので、普段と何ら変わらぬ生活の中、とても元気にあつ森をやりこみながら過ごしております。笑
世界が変化の時を迎え、日々様々なことが起こり、そして様々な情報が飛び交い、心が不安定になりがちですが、私がここ最近、特に繰り返し読んでいる回天隊の方々の言葉をいくつかご紹介します。
上別府宜紀大尉
"冬来りなば春遠からじ"、厳寒の冬を過ごして桜花爛漫の春が来ると同様、あらゆる苦境を忍び、一途に光明の彼岸に邁進するところに我々日本人の生き甲斐があり、生命があるのだと思います。
(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:171)
本井文哉少尉
ある南洋の島の土人は、雨降りの日を喜ぶそうだ。
それは、その後には必ず晴天の日が来るから……。
それは何日後に来るかも知れない。しかし必ず来る。
よく堪えて、頑張ってくれ。
(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:180)
和田稔少尉
どんな風が吹こうと、ぬかるみがつづこうと、しっかりと歩調をとって、まん前を向いて、地をふみしめ進んで行こう。
時代、時代で空飛ぶ向きの異なるような軽薄な木の葉は相手にしないで行こう。
(和田稔.(1995).『わだつみのこえ消えることなく:回天特攻隊員の手記』.角川文庫.頁:93)
久家稔少尉
蓮の花は泥沼のなかにありながらあのような清らかな花を咲かせる。
いかに汚穢に充ちた世界にあっても、信念を堅く持っておれば、それには染まらず、生きて行けるものである。
(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:239)
黒木博司大尉
自分の中を流れる天の命、此れを知り此れを伸ばし此れを明らめ此れに依って生き死なんこそ私達の最も大切なことであります。
(吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:119)
柿崎実中尉
死生観とは、死を考えるから起きる考えだよ。考えなければこんな事は問題ではない。
人間は日常茶飯事とおなじ自然の一現象にすぎない。
死をどうしてそれだけ大きな問題に考えるのか。之も慾の為めだ。即ち愛の欠乏した人間の考える事だ。
臣として君の愛を感じ、子として親の愛を感じ、人としては神の愛を感じ、妻としては夫の愛を感ずる人にとっては、死ぬという事は考えられない事だ。
(回天刊行会.(1976).『回天』.回天刊行会.頁:222)
どうか皆さん、こんな中ですが、否、こんな中だからこそ、自分の心を、自分の信念を大切にしてあげてください。そして「愛」を思い出してください。
自分を愛してくれている存在がいること、自分が愛している存在がいることを、どうか思い出してください。
自分の心に不安や恐れ、怒りがあるなあと感じる方。
そのようなネガティブな感情にズルズルと引きずり込まれている状況から、脱することのできる方法です。
「晴れの日」も「桜花爛漫の春」も、必ずやってきます。
外的要因に流されず、自分の信念と愛を忘れずに、これからも自分の人生を生きていきましょう。
周南きさらぎ文化祭の事後報告
久しぶりの投稿です。ずっと放置しててすみません…。
ブログでは後からのご報告で申し訳ないですが(ツイッターでのみ告知してました)、2月22日に、周南市立徳山駅前図書館にて行われた周南きさらぎ文化祭の回天顕彰会さんのブースにて、私の文章を展示していただきました。
このような貴重な機会にお声がけいただけて、顕彰会さんには本当に感謝あるのみです!
顕彰会さんよりいただいたお写真で、展示の様子をご紹介します。↓
顔写真の存在感に、自分の顔ながらわろてまいそうになりましたが…←
丁寧に、そして大きく展示していただいて感激です(;∀;)
素人の拙い文章ではありますが、会場に訪れた方に、少しでも回天に関する事について伝えることができていたらいいな、と思ってます。
展示していただいた文章は、以前ブログに書いた「人間魚雷(回天)を考えた若者たち」の文章がおかしいところやいらないところを書き直して、少し読みやすくしたものです。
内容に関しては以前と変わらないものではありますが、改訂版として新たな記事をアップしたので、また読んでいただけると嬉しいです。
人間魚雷(回天)を考えた若者たち・改
もくじ
はじめに
日本に特攻兵器として初めて誕生した、回天。
後に回天という名前となる人間魚雷を発案したのは、海軍機関学校出身の黒木博司さん、そして海軍兵学校出身の仁科関夫さんだという話はとても有名です。しかし人間魚雷というものを考えていた人は、実はこの2人だけではありません。さまざまな場所で当時の戦争に直面していた若者たちが、人間魚雷、体当たり兵器の採用を訴えていました。その中で、実現までこぎつけたのが黒木博司さん、仁科関夫さんでした。
現段階で私が知っている人間魚雷を考案した方々は、後述する10名です。この資料では、10名の方々が「いつ頃」、「どのような流れで」人間魚雷を考えたのかを、書籍をもとに簡単にまとめました。
(※和田稔さんに関しては、ドイツの人間魚雷に関して述べているという説もあるので、こちらには記載しておりません)
引用・参考文献は、各項目の最後にカッコ書きで番号を振っておりますので、「引用・参考文献一覧」の該当する番号よりご確認ください。
なお、この文章は筆者のブログ「紫紺の空の一つ星」に掲載している「人間魚雷(回天)を考えた若者たち」という記事の内容を一部編集・修正したものです。
人間魚雷を考えた若者たち
◆竹間忠三さん
呂106潜の水雷長だった竹間さんが人間魚雷の構想の意見書を上層部に提出したのは昭和18年の初め、26歳の時。
意見は却下されましたが、竹間さんがこの意見書を提出した理由について、
「これは特修科学生中の同僚の体験談と、第七潜水戦隊司令部勤務中の第一線潜水艦の運用状況から、将来の潜水艦戦の様相を汲みとり、対策の早期確立の必要を感じたからであろう」
と、同期の菅昌徹昭さんは仰っています。[1]
◆沢崎正恵さん
支那事変に従軍されていたご経歴があるので、今回ご紹介する方々の中では最年長だと思われます。
昭和18年6月、「絶対に敵の空母を沈めることのできる兵器を開発して、起死回生をはからねばならない」との思いで人間魚雷の設計を開始。翌年1月に完成し、その翌月に、自分が乗るつもりで海軍軍令部へ嘆願書を持ち込みました。
嘆願書は採用されませんでしたが、沢崎さんは後に新聞で回天の存在を知り「私の考案した兵器に乗って死んでいった若者がいる―と複雑な気持でした」と語っています。[2]
◆近江誠さん
昭和18年、伊165潜はインド洋で敵駆逐艦にズタズタに攻撃されます。その航海長だった近江さんは、「一人が相手を道ずれにして死に、味方の九十九人が助かる方法はないか」と考えた結果、人間魚雷の構想にいきつきます。同年末~昭和19年初め頃、自分が乗るつもりで血書嘆願を上層部に提出しました。
近江さんの生年月日は不明なのですが、海軍兵学校70期なので当時20代前半だと思われます。後に回天基地へ赴任されました。[3]
◆橋口寛さん
昭和19年、巡洋艦「摩耶」に乗っていた橋口さんは、人間魚雷兵器を血書嘆願しています。当時19歳か20歳あたり。
その後、回天基地への転任の辞令が出されます。[4]
※橋口さんに関する詳細は調査中です
◆三谷与司夫さん
昭和19年10月、駆逐艦「桐」の水雷長だった三谷さんは、守るべき空母4隻を失った捷一号作戦からの帰投中に、「この優秀な魚雷を敵艦に当てるには人間が乗っていくしかない」と考え、絵を描いた志願書を艦長に提出しました。当時21歳。
帰投後、回天基地へ転任されました。[5]
◆深佐安三さん・久良知滋さん・久戸義郎さん
彼らの考えていたものこそが、後に「回天」と呼ばれる人間魚雷の原点です。
昭和18年12月、当時20代前半の3人の青年士官が、使われていない93式魚雷の活用方法と戦闘方法について毎晩考え、話し合っていたのが始まりです。翌月、同じP基地(特殊潜航艇の基地)にいた設計に詳しい機関科の黒木さん(後述)と、3人と同期の仁科さん(後述)も加わり、5人で回天の実現化に励むことに。
やっとの思いで設計図を完成させ、5人でP基地の司令へ提出しますが、処分されてしまったので、今度は海軍関係のあらゆる場所に、司令に内緒で送りました。
その年の2月、上層部が人間魚雷の構想に関して興味を示したため、さっそく試作の話が持ち上がりました。が、これからという時に、3人は辞令により回天に携わることができなくなり、回天の実現はその後黒木さんと仁科さんが行っていきました。
回天の原点をつくりだした3人ですが、回天搭乗員にはなれませんでした。[6]
◆黒木博司さん・仁科関夫さん
人間魚雷のことではないものの、黒木さんが特攻兵器に関して血書嘆願を上層部に提出したのは昭和18年3月、21歳の時。その後人間魚雷の構想もねり始め、10月には同期たちに人間魚雷の血書嘆願に署名血判をお願いしています。
12月、2ヶ月前にP基地に赴任してきた仁科さんと同部屋になり、思想等が似通っていた2人は、すぐに意気投合。仁科さんは兵科の知識で人間魚雷の構想を助けました。
同年末に二人で海軍省へ図面を持っていき、その当時考えていた人間魚雷の採用を直接訴えました。
翌年の1月から試作までの話は前述したので省略します。
上層部は脱出装置をつけることにこだわりましたが、彼らの脱出装置不要との申し入れによりこれを取りやめ、7月にようやく完成。走航テストが黒木さん・仁科さんの操縦で行われ、見事成功し、その後正式採用されました。その当時黒木さんは22歳、仁科さんは21歳です。[7]
彼らの人間魚雷考案に私が思うこと
当時を実際に生きたことがない私たちから見るとなかなか理解しづらい、というか、ほぼ理解は不可能なことだと思いますが、別々の場所や所属にいたにも関わらず、10名が10名、同じ「人間魚雷」というものに固執したのは、当時の状況下で、そこに何か見出せるものがあったからなのではないかと、私は思っています。
また、彼らは今でいうとてもエリートな方々。頭がものすごくいい人たちばかりです。そして生前のエピソードや家族宛の手紙を調べると、とても家族思い、友人思いな方々です。私は、そんな彼らだからこそ人間魚雷を考えたのだと思っています。
軍人として戦争の前線にたち、愛すべき家族や生まれ育った祖国を思い、同胞を思い、軍人である自分たちの立場から、さまざまなことを思い、苦悩し、必死に考えていたと思います。そんな中から生まれたのが人間魚雷の発想だったのではないかな、と。
表面的に見ると、彼らは「特攻兵器に拘った」ということになりますが、決して「必死」をゴールにしていたのではないでしょう。必死はあくまでも過程であり、ゴールではないと思います。
彼らにはその先に、自分たちにとって最も大事なものが見えていたのではないでしょうか。そして、その大事なものを守るために、その当時最善で効率的な兵器、それが人間魚雷だったのではないか、と私は考えています。
最後に、八丈島の基地回天隊隊長だった小灘利春さんのインタビューの内容の一部をここに引用します。
「私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っているんですね。一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。戦後の新聞はやれ、愚かな戦争とか愚かな特攻隊員などと書きたがりますが、回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか」[8]
引用・参考文献一覧
[1] 第六十五期回想録編集委員会.(1985).『第六十五期回想録』. 海軍兵学校第六十五期会.頁:582
[2] 恩田重宝.(1988).『特攻』.講談社.頁:304〜307
[3] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:97~99
[4] 小灘利春・片岡紀明.(2006).『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』.光人社.頁:25
[5] 西尾邦彦.(1995).『関西ネイヴィクラブ講演録(平成7年5月23日)』. 関西ネイヴィクラブ事務局.頁:190
[6] 上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:23~25,118~121
[7] 吉岡勲.(1979).『ああ黒木博司少佐』.教育出版文化協会.頁:282~284,305~306
上原光晴.(2010).『「回天」に賭けた青春 特攻兵器全軌跡』.学研パブリッシング.頁:100~103,106~108,130,131
[8] 『特攻 最後の証言』制作委員会.(2013).『特攻 最後の証言』.文藝春秋.頁:100
令和元年度回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式に参列してきた
11月10日、今年も気持ち良く晴れてくれました。
さっそく高速船に乗って大津島へ。
着いたらすぐに見えたのは…
11月3日に完成したばかりの大津島回天神社!
旭日旗、日の丸、そして菊水の旗が掲げられており、既に胸がいっぱいに。
皆さん真っ先に神社へお参りされていました。
私もその列に並び、しっかり手を合わせてきました。
彼らと向き合える場所がまた一つ増えて、とても感激しています。
とりあえずお供え物を…と思い、坂をのぼり追悼式の受付へ。
今年は旦那さんに頼らず、145羽を1人で折ることができました…!笑
私の尊敬する方お一人お一人に感謝の気持ちを伝える方法が、このような形でしかできずに申し訳ないですが、年に一度、お一人お一人の石碑と向き合い、折鶴をお供えできる事にとても感謝しています。
お供えをしていると、ご遺族の方に「すごいねえ、みんな嬉しいだろうねえ」と声をかけて頂き、泣きそうになりました…
そして今年は、全員の石碑にお花がお供えされていて、関係ないのに私が嬉しくなっちゃいました…
プラスして柿崎隊の4人にはお酒とお菓子(山口さんはおつまみ笑)、黒木さんには好物の栗、仁科さんにはお菓子のお供えをしました。
式が始まるまでの時間、普段ツイッターでお世話になっている研究者の方や漫画家さんにお会いできて、さらには奥本剛さんもお見かけすることができてとても嬉しかったです☺️✨
そして驚きなことに、回天顕彰会さんのご厚意により、マイケル・メアご夫妻にご挨拶させていただくことがでしました。
マイケル・メアさんは、回天の攻撃により沈没したミシシネワの生存者であるジョン・メアさんの息子さんです。そして回天の研究者でもあります。
米国より関係者のご家族が初めて参列される記念すべき日に立ち会えただけでもとても光栄なことなのに、まさか直接お話ができるとは思ってもいませんでした。
このような機会を与えて下さった回天顕彰会さんには感謝してもしきれません。
お話しさせて頂いている中で、マイケルさんは「史料を探すことに時間をかけすぎないでくれ」と仰られました。
それはマイケルさん自身、アメリカの極秘史料含めさまざまな史料を、膨大な時間をかけて収集・照らし合わせを行った故の、重みのあるお言葉でした。
私たちがインターネットや書籍を読むだけで知れることは、研究者の方々が時間と労力をかけて一生懸命調べてくださった結晶そのものです。如何に自分が恵まれた環境にいるのかが、改めて実感できました。
本来であればものすごい時間がかかることを、私たちは研究者の方々のおかげですぐに知ることができます。であれば、その分の時間を何に使うか、「これから」を担う私たちにとって重要なのはそこなのです。
私の夢は、回天の搭乗員の方々の言葉や生き様、思想を中高生や大学生、そして子どもたちに伝えることです。私は時間を、「伝えること」に使っていきたいと強く思いました。
また、現在もまだ発見されてない当時の史料が多くあることも、そのために研究者の方々が日々調査されていることも事実です。
そのような方々の行動は、未来の研究者含め人類にとって大変有難く、また大変重要なものとなるのだな、と感じました。
そして、マイケルさんは「若い世代に受け継いでいってほしい」という言葉も、何度も仰られていました。
それは、後述する追悼式でのマイケルさんの御挨拶でのお話に深く関係するお言葉でした。
私たちが今後受け継いでいくためには、少しでも多くの方に知ってもらい、興味を持ってもらうことが大切だと思います。
マイケルさんが今回、私含め追悼式に来られていた方一人一人にバトンを渡してくださったように、私も今後精進し、多くの、というかそれはもう大量のバトンをばら撒いていきたいと思いました。
英語ができない私は、顕彰会さんに通訳をお願いしてお話させて頂いたのですが、今日ほど英語ができないことを悔やんだ日はありません…。ちゃんと勉強しよう…。
定刻の11時30分に、式はスタートしました。
式が始まると同時に太陽が雲に隠れ、直射を浴びることなく過ごせていましたが、献花が始まると再びパアアっと晴れて、とても不思議でした…
追悼飛行のT5。
いつも不意打ちでいらっしゃり、わーカメラカメラ!ってやってるうちに行ってしまわれるのですが、今年はちゃんと撮れた…!笑
平和の島スピーチコンテストの代表の女の子のスピーチが、本当に素晴らしかったです。
ノーベル平和賞の受賞時、インタビューで「世界平和のためになにをしたらいいか?」という質問を受けたマザーテレサの、「家に帰って、家族を大切にしてあげて下さい」という言葉を中心とした内容のスピーチでした。
このマザーテレサの言葉を聞いた当初、彼女は、
「家族を大切にすることは当たり前なのだから、それより、世界の苦しんでいる人々のために行動しなければならないのではないか」
と思ったそうです。
これはほとんどの人に当てはまることではないでしょうか。世界平和を考えた際に、今苦しんでいる人を助けなければ、と思う心は、誰でもあると思います。
しかし彼女はそう感じたとともに、自分が本当に家族を大切にできているかどうか考え、家族に申し訳なくなったそうです。
目の前の人を大切にし、意識的に感謝をすることが、平和につながる。
なぜなら何事も行動するということは、家族がいるからできることであり、それは世界平和のための行動も例外ではないからです。
彼女が説いてくれたのは世界平和を考える際に最も重要な、根本のお話でした。
とても心が震えるスピーチで、聞き終わるときには、「ああ、これもう、全人類もれなく聞いてくれえ…;;」と思いました…。
そしてマイケル・メアさんの御挨拶。
式の前日にご遺族とご交流があったそうで、「ご遺族の方それぞれが亡くなった方への思いを強く持っていらっしゃり、それを今に伝えていこうという思いを強く感じました。それは、私やミシシネワの遺族にとっても同じ思いです」と語っていました。
また、一つのエピソードとして、仁科関夫さんのご遺体が上がった時に、マーシャル・ドークさんがそのご遺体に祈りをささげたということもお話されていました。このお話は、マイケルさんの著書「回天」に載っています。
そして、「大切なのは若い世代こそ回天搭乗員のお話を語り継いでいく人々だということ」とのお言葉が。
マイケルさんは、2005年に亡くなれたお父様と、若い世代に語り継ぐことを、死の床で約束されました。今日はその機会となったと仰られていました。そしてお話は続きます。
「父は『私たちは国の為に尽くしたのであって、それを忘れてほしくない。同様に、回天搭乗員も国の為に尽くしたのだから忘れてはならない』と、強く語ったことを今も覚えております。」
当事者であるジョンさんが、当時敵であった国の軍人にもこのような思いを持たれ、それを語り継いでほしいと息子さんに仰られたことに、私は強く胸を打たれたと同時に、自分の視野の狭さを反省しました。
現実、私たちは戦争の話をしたり、学ぶ際は、当時のアメリカの話を聞くことはほぼなく、日本の話が中心だと思います。きっとどこの国も自国の話が中心でしょう。それは当たり前のことです。
しかし自国についてしっかりと知った上で、お互いが当時のお互いについて知り、「みんな国が違うだけで心の向かう先は同じだったのだ」と気付くことが、どれだけ大切なことだろう、と思いました。
マイケルさんの本は、その大切なことを伝えてくれる本だと思います。
式が終わった後、またもやミラクルが…
顕彰会さんが「クラファンのお礼だよ!」とマイケルさんご夫妻のサイン入りの「回天」の本をくださった上に、マイケルさんご夫妻と一緒にお昼ご飯まで食べさせていただくことになり、緊張マックスでふれあいセンターへ。笑
通訳さんに通訳をしていただき少しお話しして、その後はマイケルさんは新聞の取材を受けられてました。ダンボのように聞き耳を立てながらご飯を食べていると、
ナンシーさん(奥様)に「こっちに座ったほうがインタビュー内容よく聞こえるよ!」的なこと(ニュアンス)を言っていただき、お席を交換してくださいました…優しすぎる!!
食べ終わって移動する直前、マイケルさんが「帽子あげる!」とミシシネワの帽子をプレゼントしてくださって私大パニック!!
更にアロマオイルの小瓶のようなものもくださり、「?」という顔をしていると、「ミシシネワから漏れ出た海軍特別燃料だよ!地元の人の生活に影響するから回収されたんだ」と言われて更にパニック!!
こんな貴重なものを頂いたのにパニックで逆に固まってしまって本当に申し訳なかったです…。
このことを友人Kさんに報告すると、海軍特別燃料について「仁科さんが流させたミシシネワの血と同じやん…」と仰られていて、まさにその通りだと深く頷きました。
その小瓶の中には、75年前の、ミシシネワ、そして仁科さん(回天隊)、両国の思いが詰まっていると感じました。
75年の時を経て、両国が現在このように交流し、繋がっていることは、当時の彼らにも伝わっていることと思います。
マイケルさんがくださった物は、私にとって一生の宝物となりました。
さて、ご飯も終わり、マイケルさん達と別れ、フェリーまでまだ少し時間があったので、私は一人魚雷発射場跡へ。
ここに来ないと、家には帰れない。
参列者の方々もだいぶお帰りになられていた時間なので、誰もいないトンネルを久々に歩き、じっくりと当時に思いを馳せることができました。
フェリーが島に到着し、徳山へ。
徳山に着きフェリーを出ると、マイケルさんとばったり再会。
「今日はありがとう、会えてよかったよ。初めて日本に来たけど、みんな素晴らしい人だ。これからも頑張ってね!」
通訳さんが近くにいなかったので、私にもわかるように、優しい英語でこのように声をかけてくださいました。
今はただただ、イエス!サンキュー!ナイストゥミーチュー!しか言えなかった自分を恥じています…(ボキャ貧どころじゃない騒ぎ)
今回の追悼式は、私にとって特別なものとなりました。
回天顕彰会さん、マイケル・メアさんご夫妻、お会いしたすべての方々に感謝です。
一人で行くことを怖がらず参列して、本当によかった;;
追悼式で、塚本太郎さんの弟さんである塚本悠策さんが「新しい時代が来ているなという感じがする」と仰られていましたが、私もその事を強く感じました。
いい方向へ変わり行く時代。そして当時のことを変わらずに語り継いでいくこと。
これからを歩む私たちに託されたものを、しっかりと理解し、そのための行動を怠らぬよう、日々精進していきたいです。
書きたいことが多すぎて、まとまりがない上にとても長くなってしまいましたが、ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!
11月9日、1年ぶりの徳山
今回で3度目となる回天追悼式への参列。
今回は初めて案内の手紙を頂き、一般参加としてお席、お弁当を用意して頂きました😭✨
案内の手紙が届いた時は、驚きと嬉しさでパニックになりました…笑
今年は旦那さんは多忙、母も当日に予定ありで、初めての一人参列でした。
スーパーHSPの小心者なので、誰かと一緒じゃないと怖いよお…;;と半べそ状態でしたが、1人で行動することも試練だと思い、勇気を出していざ徳山へ!笑
わーい、1年ぶりだ!!
またこの地を踏めるなんてなんて自分は幸福なんだ…と早速幸せを噛み締めました。笑
ホテルに荷物を置いたら、我慢できずに早速港へ。
やっぱり、回天模型があったところはもう跡形もなくなってました…😭アアア
整備が終わったらまた戻ってきてくれることを願います!
ちなみに、徳山駅の図書館側の広場には噴水が出来てました。
え、超インスタ映えじゃん…!
暗くなるとライトアップされるので、JKたちが写真撮ってました。
そして駅周辺、去年よりも明らかに若い子が増えてる、というか、若い子しかいない!笑
いたるところに高校生や大学生が溢れてて、めちゃくちゃ活気のある街になってて感動しました。すごいよ周南…!
晩御飯は、去年訪れてその美味しさに大興奮した「カフェクラブ ミル」さんで頂きました。
このドイツパンがほんとにほんとに美味しいんですっっ😭😭
また食べられてよかったなあ😭😭
ホテルに帰る前に、先に駅でお土産を購入。
私的山口のお土産代表はこれ。
松陰餅。笑
帰ったら、旦那さんに「でたよ…」と言われました。←
みんな大好き松陰先生だし、めちゃ美味しいし、一石二鳥だね!(?)
そしてずっと気になってた大津島のすだいだいビールが、なんと駅の蔦屋書店に置かれてました!
瓶ものなので配送できないか伺ったところ、5000円以上買わないと対応できないらしく…。
流石にすだいだいビール5000円分は消費しきれないので、悩んだ挙句1本だけ買って帰ることに。笑
光の反射の加減のためにトースターの横とかいう変な場所での写真ですみません。笑
割れずに持って帰ることができてよかったー!( ;∀;)
まだ飲んでないので、お味のレビューはまた今度…♡
そしてコンビニでお供え物と自分の飲み物を買い込んで両手一杯の荷物でホテルへ戻りました。
手がちぎれるかと思った!!!!←
ホテルでは旦那さんと電話しながら、心ゆくまで旅のお供であるザメディアジョンの回天本を眺め、枕元に置いて就寝。
あり得ないほどぐっすり寝れました。自分でもびっくり。
1人でホテル泊まるの怖いよお;;とか言ってた自分が嘘のようだ!!
さて、前置きが長くなってしまいましたが、次の記事ではようやく追悼式当日について書いていきます!
回天特攻隊員に教えてもらった「勉強」に対する考え方
私は、小さいころから勉強が大嫌いでした。
今考えればそれは、「テストで高得点を採っていい成績をもらうことへ向けた準備」を勉強だと思っていたからかもしれません。
自分のためになるという話を聞いても漠然としすぎていて、何がどう将来の日常生活に役立っていくのかがわからず、自分の成長と繋がるなんて考えもしなかったのです。
当時はただひたすら、勉強を「学校から、世間から押し付けられているもの」だと思い込み、嫌悪感を抱いていました。受け身な考え方ですよね。笑
要領というか、短期の記憶力だけはよかったので、テストのために一夜で勉強した後にテストを受けたらすぐ忘れて次の科目を勉強していました。友人にテスト終了後「あそこの問題なんて書いた?」と聞かれても「覚えとらん」と返して驚かれたものです。
恥を忍んで書きますが、おかげで今、学校の勉強は何一つ身についておりません。笑
国語力は御覧の通りの残念感ですが、数学どころか算数もだいぶ怪しいです(やばさ)
私が長い学生時代で行っていたのは、自分のための勉強ではなく成績のための勉強だったからです。
回天隊の彼らが弟さんや妹さんへ宛てた手紙に、どういう勉強をすればいいのか、勉強とは何か、を教えているものがあります。
彼らの言葉を読み、私の勉強に対する考え方がガラリと変わりました。
勉強はいつ始めても遅くはないもの。今後の自分の人生に活かせるように彼らの言葉を深く吸収し、勉強に励んでいけたらと思います。
勉強に悩める子ども、そして大人と遭遇したらぜひ教えてあげたい彼らの言葉を、この記事に引用します。↓
・和田稔少尉
和田稔少尉が日記の中で弟さんへ宛てて書かれた文章より一部引用しています。
「(前略)お前のやる数学は、ただ試験に役立つためではなく、いつか数学的な考え方の養いということによって、お前の正しい生き方の基石の一つになっているのだ。また更に進んで、お前は近頃の下らない小説なんか読むよりも、むしろ歴史を読まねばならない、ということ。また昔の古典などもよいだろう。そのようなものは、歴史の流れを通じて現在の位置を示してくれるものであるし、ひいてはお前の考え方の位置をはっきり示してくれるものである。(後略)」
(和田稔氏著「わだつみの声消えることなく」p.96)
これを読んでとっても心が痛かった私です。←
勉強がどう自分に活きてくるかを、とてもわかりやすく具体的に説いてくださっています。
歴史を学ぶことで現在こうなっている理由や自分の思想を知ることができるのは、私も少しながら実感しています。
そして数学なんか将来絶対必要ない!と思っていた文系私。
確かに点Pなんて日常に現れないし出会ったものの面積なんていちいち求めませんが、正解の数値を出すことのみが数学なのではなく、その正解の数値に辿り着くための筋道を考える行為も重大な目的であり、寧ろ筋道を考える行為が数学を人生に役立てるということなのだと理解しました。
・上別府宜紀大尉
上別府宜紀大尉が妹さん方へ宛てた手紙より一部引用しています。
「(前略)何を勉強するにも、工夫しなければいけません。国語の漢字書き取りなんかは、明日試験だといって勉強しても何にもならない。手紙や感想録その他何を書くのでも、知らない文字とか疑わしい文字があったら、決してそのままにして置かないで一応辞書を引いて確かめておかないといけない。
また道を歩くときも、何か見たらそれを英語ではどういうか、また字はどうかと考え、わからなかったら辞書を引く。こういうようにしなければいけない。私が家で、明日試験があるからといって特別勉強しなくてよかったのは、一つにはこういうことのためだったんです。(後略)」
(回天刊行会「回天」p.168,169)
明日試験だからという勉強しかしてこなかったので、これも心が痛いです。泣←
海軍兵学校時代に書かれた手紙ですが、兵学校生徒の言葉は本当に説得力があります、、、いや、説得力しかありません、、、(なくなる語彙力)
日常と勉強が如何に密接しているかということを説いてくださっている言葉です。
この手紙にはほかの部分にも勉強法が細かく書かれていますが、上別府さんの勉強法、1から100まで全部知りたい人生だった…と思う今日この頃です。
・黒木博司大尉
黒木博司大尉が妹さんへ宛てた手紙より一部引用しています。
「(前略)しっかりしっかり本当に心して勉学をしなくては駄目です。此の勉強というのは英語とか図画などではありません。本当に御国の為を思う真心の勉強です。(後略)」
(吉岡勲氏著「ああ黒木博司少佐」p.136)
他の妹さん宛ての手紙では、国史を読みなさい、歴史を勉強しなさい、などと仰られています。
自己の形成としての勉強が本来の考えの基盤にあり、その上に学校で習う勉強が成り立ち、活かされていくのだということを私は今になってようやく理解しました…。
大人になり、勉強を絶対にしなくてはいけないという環境ではなくなりました。
しかしそのような環境だからこそ、(そして私は今まで勉強をしてこなかったからこそ人一倍に)自ら進んであらゆる分野の勉強をしていきたいなと思います。
9月11日の靖国参り
更新しなさすぎで靖国参りの記事が並んでしまいましたが…笑
9月11日は我らが黒木博司少佐のお誕生日でした!
当日、さっそく靖国へ。
午後から雷がやばい予報だったので午前中に行ってきました。
ここはいつ来ても清々しいけど、黒木さんのお誕生日なので清々しさ倍増。
第一鳥居から第二鳥居へ行く道で前々から工事してるところがあるのですが、そこが10月10日にとうとうオープンするらしく看板が出てました。(写真撮り忘れた…)
遊就館以外にご飯食べるところができるのすっごく嬉しい!
話が脱線しましたが…笑
お参りして、御朱印も頂いてきました。
御朱印もらうたびに言ってて申し訳ないですが、今回も黒木さんらしく黒々でっかく堂々と!!って感じでああ〜黒木さんの音ォ〜!(突然の水素ネタ)ってなりました。
靖国神社を後にして。
神保町まで歩いてランチを食べたあと、この日に食べずにいつ食べる!なモンブランを食べました。笑
リアルに年に1回、黒木さんの誕生日くらいにしか食べないモンブラン…
黒木さんを思って美味しくいただきました。
自宅のお供え用に甘栗むいちゃいました的なやつも買って帰りました。笑
さすがに柿は入手できなかった…栗で勘弁してください🙇♂️←
なんかすっごいフワッフワした記事になっちゃいましたが…改めまして黒木さんお誕生日おめでとうございます🎉
なんの根拠もないけど、私にはどうしてもあなたの魂がいつも私たちを見守り、指導してくださってるようにしか思えないのです。
なので、いつもありがとうございます、という言葉がつい口から出てしまいます。
本当にたくさんのことをあなたに教わっていますが、その中の一つ「どんな熱い思いも実行しなくてはなかったものとなる」ということは、常に心に留めて生きていきたいと思います。
この言葉も周りから見たらおかしいのかもしれないけれど、これからもよろしくお願いします。
…ハッ!黒木さんへのメッセージになってしまった笑
最後に、黒木さんが尋常小学校6年生の時に書かれた詩「大日本帝国」より、特に私が好きな4番と5番を抜粋してご紹介します。
「四、世界に誇る 富士の峰
水又清き琵琶の湖
世界の遊園 瀬戸内海と
到るところに 名所あり
五、あゝ麗はしき日の本の
この誇りある我等の祖国
守り立てるは我等のつとめ
いざやはげまん もろともに」
(吉岡勲氏著「ああ黒木博司少佐」p.29)